**誓いてし scene8 誓いの行方
朝まだき。まだ朝靄が立ち込める中、アラゴルンとハルバラドはエルフの岩屋を後にした。
昨夜以来、ハルバラドはアラゴルンと口を利いていなかった。エルフの王子に謀られ、薬のせいで、まだ少しふらつく族長を部屋まで送り届け、その戸口で二人は別れた。その時も、ハルバラドは何も言わず、アラゴルンを見ようとさえしなかった。アラゴルンもまた、何も言わなかった。
岩屋を辞してからも、二人は無言で馬を進めた。かさりこそりと、馬の蹄が枯れ葉を踏みしめる音だけが、沈黙した二人の間に降り積もる。
昼時になっても、どちらも休憩を言い出さず、葬列さながらの重苦しさを引きずるハルバラドの後姿を見ながら、アラゴルンは粛々と馬を進めた。
日が暮れかけた頃、それにも気が付かないのか、暗い目をして馬を進めようとする年若い部下へ、やっとアラゴルンが声を掛けた。
「止まれ、ハルバラド、今日はここで休もう」
言われて、のろのろとハルバラドが馬を降り、木立に馬の手綱を結びつける。鞍袋から食料を取り出してアラゴルンが差し出したが、ハルバラドは首を横に振って、せせらぎが聞こえる方向へ歩いていってしまった。
アラゴルンは迷っていた。部下のドゥネダインが、苦しんでいるのは分かっていた。ハルバラドとの貞操の誓いを、心ならずとはいえ、破ってしまったのは自分だ。許しを請うべきなのだろうが、何故か、ハルバラドが全身でそれを拒んでいるような気がしてならなかった。
ハルバラドは、必死で戦っていた。闇の森を辞したら、アラゴルンに、貞操の誓いの無効を申し出るはずだった。彼に足枷を付けてはならぬと、自分で決意したはずだった。本気でそう思った自分を、誇らしくさえ思っていた。なのに。
その声を、冷ややかに諌めるもう一人の自分もいる。
―――――――おまえも誓ったはずだ、心の中で。もう二度とあの人を煩わせないと。あの人に何も望まないと。その誓言はどうした、ハルバラド。所詮おまえはその程度の男。エルフの王子は見抜いていた。いくら背伸びしても、おまえはちっぽけな取るに足りない存在だと。
混乱が身体を侵して、嘔吐感が込み上げてきた。川面に大きく枝を張る楡の木につかまり、吐いてしまおうとしたが、今朝から何も食べていない胃は空っぽで、激しい咳き込みに襲われただけだった。
「大丈夫か、ハルバラド」
後ろからアラゴルンが声を掛け、部下の背をさすった。
触れられたハルバラドは、びくりと大きな身体を縮めると、のろのろと振り返った。
憂い顔で自分を覗き込む、アラゴルンの瞳。いつも、ハルバラドに凪いだ湖面を連想させる灰青色の目。悲しげに翳る、その美しさ。
この瞳には、涙が似合う。
不意に、自分に貪られ、一筋の涙を流して身を捩るアラゴルンの姿が浮かんだ。
―――――――俺は何を考えている!?
ハルバラドは、慌ててアラゴルンを撥ねのけると、二歩三歩もつれた足取りで横へ退いて、そこに両手をついて崩れ折れた。息が苦しかった。呼吸がうまくできない。
「…ハルバラド、怒っているなら、わたしに気持ちをぶつけろ。自分を傷つけるな」
そう言って、アラゴルンがハルバラドに手を差し伸べる。
立ち上がるのを助けようと、自分に伸ばされた族長の手。きっちりと身を包む野伏服の袖口から、微かな赤い縄跡が覗く。ハルバラドの目の前が、嫉妬で赤くぶれる。白い花綱に拘束され、淫らに王子の欲望に応えていたのだ、この人は。許せない…!誓ったのに、俺に誓・チたのに…!
――――――― 心を静めろ!族長には何の咎もない。俺への義務もない。あの誓いは、もともと無効だ!
沸き起こる凶暴な気分を、ハルバラドは必死に諌めた。
―――――――俺がなりたいのは、この人の守り手だ。俺がなりたいのは、包み込み、この細い肩を抱いてやれるような大きな男だ!俺がなりたいのは、俺がなりたいのは!
―――――――何でもないと言え。すぐさま一人で立ち上がり、自分は大丈夫だと笑ってみせろ!ハルバラド、出来る筈だ!この人を愛しているのだろう、ハルバラド!
歯を喰いしばり、差し伸べられたアラゴルンの手に向かって、大丈夫だからと、手を振ってみせようとした。だが、その手は自分の意思とは無関係に、アラゴルンの手首を掴んだ。
「あなたは、誓いを破った…」
喰いしばった歯の隙間から、くぐもった呻きのように、その声は忍び出た。アラゴルンの手首を掴んだハルバラドの手に、力が籠もる。
「あなたは、俺との誓いを破った!」
叫びながら、乱暴に手首を引き寄せて、ハルバラドはアラゴルンを組み伏せた。二人のマントが翻り、落ち葉の降り積もった地面に落ちる。
もう、何も考えられなかった。