**星を仰ぎて 4話   星の盟約

  角笛城に与えられた居室で、ハルバラドは寝台に腰掛け、自分の手を見下ろしていた。
 まだ、さっきアラゴルンの肩を掴んだその感触が残っていた。
 無駄な贅肉がいっさいついていない、実用的な筋肉で出来たしなやかな身体。戦いに次ぐ戦いで先陣を切り、いつも最前線で戦っておられるのだ。武人としてのアラゴルンへの誇らしさが沸く一方で、自分の身体がどうしようもなくざわめくのを感じて、ハルバラドは苦笑した。 結局、自分は今でも彼に恋をしているのだ。

神に掛けて、二度と手出しをするつもりはない。だが、想い人に触れてウブな小僧のように反応するとは、自分は思っていたほど枯れていないのだなと、妙なおかしみが込み上げてくる。
 彼は年月に感謝していた。それでも恋する人に触れても自分を押さえることが出来るくらいには、どうやら成長したらしい。

―――――ヴァラールよ、感謝いたします。そして今朝、俺は見ました。己の死を。ヌメノールの血が予兆をもたらし、俺と族長はどうやら同じものを見たらしい。何故彼にもお見せになったのか、それについては、ひとしきり文句を云わせてもらいたいのだが。でも、どうやら彼は、今朝の出来事の後だけに、自分の心が生み出した悪夢と思ってくれたらしい。


―――――もうすぐ、俺の命をお召しになるのですね。では、俺が誓いを果たす日が、間近に迫っているのですね。

 

 コンと短いノックの後、酒瓶を手・ノしたアラゴルンが現れた。
「少し付き合え」
「また、寝台を抜け出されてきたんですか」
 呆れたようにハルバラドが云うと、アラゴルンが顔をしかめた。
「あいつらが過保護すぎるんだ。薬湯だ、休息だと、まるで深窓の姫君扱いだ」
 緑葉の王子もセオデン王も、その甥御エオメル殿、ギムリ殿にメリアドク殿、貴方の周りにいる人々は皆、貴方を愛しているのですよと言いかけたが、止めておいた。彼はそれを知っている。痛い程に。

 

 小卓を挟んで、二人は向かい合わせに座った。お互いの杯に酒を満たし、一杯目を一気にあおると、アラゴルンが酒盃をテーブルに置いた。
「パランティアで、私はあるものを観た。ウンバールの海賊達が、南からミナス・ティリスへと迫っている。我らは、ローハンとは別行動で死者の道を行く」
 ゆっくり頷くと、ハルバラドも酒盃を置いた。
「わかりました」
「随分話が早いな」
「『死者の道を行け』とのエルロンド卿からの伝言は、俺も知っていました。貴方は、きっとその通りにされるだろうと」
 言葉を切ると、彼は付け加えた。
「我らドゥネダインは、貴方が行かれるなら、地獄へだろうとお供致します」
 アラゴルンは無言で頷くと、椅子を立って窓辺の寝台の端に座り直した。

 

 月が明るい夜で、窓から光が差し込み、淡い光が部屋を満たしていた。
「どうされました」
 物憂げに窓から外を眺めるアラゴルンを不思議に思い、ハルバラドも席を立って彼の正面に立った。
「何か心配事でも?」
 尋ねても、アラゴルンは押し黙ったままだった。やがて、雲が流れて月が隠れると、辺りが暗闇に満ちた。小卓に置かれた灯火だけが、ちろちろ揺らめく光を投げかける。アラゴルンは、やっと外の漆黒の闇からハルバラドの顔に視線を移すと、言った。
「あれは、予兆だな」
 虚をつかれ、ハルバラドは咄嗟に顔を繕いそこなった。
「やはり、そうなんだな」

 

―――――――置いて行かれる!
 瞬時にハルバラドの頭を駆け抜けたのは、ただその事だった。
「族長!俺は…!」
  彼・ヘ咄嗟に一歩踏み出し翻意を懇願しようとしたが、アラゴルンが手を上げ、それを制した。必死の形相で、尚も言い募ろうとするハルバラドへアラゴルンは告げた。
「私は、お前を死に導こうとしている。でも、置いてはいかぬ」

 

 族長の言葉に、ハルバラドは大きく目を見張ると、素早く床に片膝を付いて頭を垂れた。
「どうぞ…、どうぞお連れください…!それこそが俺の望みです」
「聞け、ハルバラド」
 再び雲間から月がいでた。跪いたハルバラドと、それを見下ろすアラゴルンを、冴え冴えと冷えた光が照らし出す。

「死の運命を背負っているのは、おまえだけではない。今、この中つ国の命ある全ての者が、皆、死を目前にしている。勝敗はひとえに指輪所持者に掛かっているが、我らは我らで出来うる限りの事をしなければならない」
「承知しております」
「私が、最良の事をする為には、傍らにお前がいてくれなくてはならぬ」
「もったいのうございます。どうか、もうそれ以上おっしゃいますな!俺には過ぎた使命です」
「ハルバラド」
 呼びかけに顔を上げると、アラゴルンの瞳と出会った。森の奥深く、静寂のふところに抱かれた、深い湖を連想させる灰がかった蒼い瞳。その奥底に、慈悲と悲哀をないまぜに持つ、真摯な眼差し。アラゴルンが、静かにハルバラドに問うた。
「おまえの命を、私にくれるか?」

 

 その問いに、ハルバラドは、はっと胸を衝かれた。
 彼は知っていた。この人の決断はいつもぎりぎりのもので、最良で、最善で、そして―――――――、いつの時も、己自身に一番辛い決断だということを。
――――――それでも、あなたは連れて行ってくださるのですね。何もかも、引き受けるおつもりで。俺の命さえも、自分の責とする為に。
 俺はもうずっと、あなたの守り手となるのを望んで生きてきました。随分あなたに近づいたつもりだったのですが、どれほど経験を積もうと、見掛けばかりは追い越そうとも、結局、俺は今でもあなたに必死に追いすがる、小さな存在でしかない。この追いすがる手をあなたは取って、共に行こうとおっしゃって下さるのですね。


 目を瞑ると、透明な哀しみがひたひたと押し寄せてきた。


 あなたはそうして、また悲しみをひとつ負い、美しい孤高の存在になっていかれるのか。あなたご自身は、ありふれた人間でいたがっているというのに。

 

 彼は目を開くと、族長を仰ぎ見た。月光が、族長の端整な顔の輪郭を淡く浮かび上がらせ、静寂を身に纏ったその姿は、虚空に輝く星とも見えた。
―――――ギル=エステル、〈いと高き望みの星〉よ。
 星となったエアレンディルの光を初めて見た者達は、驚嘆してそう呼んだという。ああ、この人は星になろうとしているのだ。己を捨て、執着を捨て、世界を救う為に星となったエアレンディルのごとく。かつて、 西の約束の地へ赴くヌメノール達を導いたエアレンディルの星。俺を導く、至高の星。遥か高みに輝く、我がエアレンディルよ。 彼は居住まいを正すと、再び深く頭を垂れた。王に忠誠を誓う臣下のように。王たらんとして、生命与奪の責を己に背負おうとする人へ。ハルバラドには、もはやいっさいの迷いは無かった。この人の強さにすがる、己の不甲斐なさを責める事さえ、不遜な気がした。この、孤高の存在の前では。


 彼は囁いた。神聖な想いを言の葉にするように。
「貴方のものです。どうぞ、お受け取り下さい。この命は、もうずっと前から、貴方に捧げておりました」

  その答えに、アラゴルンはふと顔を和らげると、かつて若者だった者の名を呼んだ。 
「ハルバラド」
「はい」
「私を抱け」

 

 

 その意味が頭に届くまで、しばしの時間がかかった。

 

 

 

  ハルバラドは、何を言われたかをやっと理解すると、大仰に立ち上がり、大きな手の平でわざとらしく膝の埃を払った。
「それは、褒美を先払いするという意味ですか。それとも、死を目前に控えた者への哀れみですかな?」
「どうかな」
 アラゴルンがとぼけた返事を返したので、ハルバラドは不機嫌に応じた。
「俺を見くびってもらっては困る。もう目の前にぶらさげられたご馳走にがっつく若造じゃありませんよ」
「おまえにとって、私は今でもご馳走なのか?」
「あなたは!昔も・。も、俺にとってはやっかいな煩悩のタネですよ!」
「それは嬉しいな。では抱いてくれるか?」
 アラゴルンが、まるで無邪気に、にこりと笑った。
「あなたって人は…!」
「しのごの無粋な男だな。そんなに嫌なら他をあたる」
 アラゴルンが寝台から立ち上がろうとしたので、ハルバラドが慌てて腕をつかんで引き止めた。

 

「本気…なんですか」
「何の話だ?疲れた。今日は、大人しく自分のベッドで寝るから放せ」
「レゴラス殿の所へ行かれるのか」
「なんで私が、あいつの所へ行くんだ」
「以前あなたは、火遊びはエルフとしかしないと」
「レゴラスと火遊びなんて、そんな恐ろしいことが出来るか!」
「この城砦に、エルフは彼しかいませんよ」
 むろん、エルロンド卿の双子の公子達がいたが、彼らはアラゴルンにとっては兄同然。同衾の相手に選ぶ筈がないことを、ハルバラドは心得ていた。
「だから、私は今日は大人しく独り寝する。おまえに振られたんだからしょうがな…!」
 言葉は、ハルバラドの口接けに塞がれた。

 長い口接けだった。ようやく想い人から唇を離すと、アラゴルンを抱きしめたまま、彼は囁いた。
「本当に…、俺に抱かれてくださるのか…」
 ハルバラドの声は、自分でも無様だと思うほど震えていた。
「云っただろう…、私だってその気になる時があるって」
「俺で、いいんですか…?」

 

 アラゴルンが、ハルバラドを見上げた。
「おまえがいい。おまえと過ごしたいんだ」
 

 

 

 外の梢で、小夜鳴き鳥が鳴いた。

 

 



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この章は、おそらく私がこの話しの中で一番書きたかったシーンです。ので、あえて裏話は控えておきます。感想をいただけたら嬉しいです。

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