**星を仰ぎて 3話  西の胸壁

 

 西の胸壁に向かいながら、アラゴルンはレゴラスの問いを己自身に投げかけていた。
――――――何故、ハルバラドでなければならなかったのか。
 
 彼の腕を見込んだのは確かだった。でも、果たしてそれだけだったのか。
 昔、自分に想いのたけをぶつけてきた若者。その想いを受け入れなかった自分。傷つけたくなかったのに、何もかも悪い方へところんで、結局泥沼を這わせてしまった。一途な目をした若者の思い出が過ぎる度、苦い悔恨がアラゴルンを苦しめた。
――――――そうだ。いつしか、もし誰かの手に掛かるなら、ハルバラドに殺されたいと願っていた。彼にはその権利があると。
 だが、それは、ただの独り善がりな思い込みだったのでは。また、自分は彼を苦しめただけなのではないか。
 アラゴルンが西の胸壁に辿り着いた時、空は夕映えに赤く照り映えていた。沈む大きな太陽を向いて、ハルバラドが胸壁のせまい狭間に足を掛けている後ろ姿を見つけた時、アラゴルンは知らずにその名を呼んでいた。


「ハルバラド!」
 ハルバラドはすぐに振り向いたが、その顔は逆光になり、表情が分からない。胸壁へ昇る階段を駆け上がりながら、再びアラゴルンは叫んだ。
「ハルバラド!」
 目眩のような既視感がアラゴルンを襲った。前にもこんなことがあった。赤い夕陽。ハルバラドの後ろ姿。

 

「どうしたんです。まだお休みになっていなくては、駄目じゃないですか」
 必死な形相のアラゴルンを困惑したように見つめながら、ハルバラドが云った。
「おまえが、私は、おまえが…!」
 混乱がまだ去らず、言葉がうまく紡げない。
「落ち着いて、どうされたんです」
 アラゴルンは、ハルバラドの顔を凝視していた視線を外すと、大きく息をついた。彼はどさりと胸壁に寄りかかると、片手で自分の顔を覆った。ハルバラドは、壁に手を付いて長身をかがめると、アラゴルンの顔を心配そうに覗き込んだ。
「何故ここへ?レゴラス殿は、あなたが床を離れるのをよく許されましたね」
 アラゴルンが囁くように言った。
「笑ってくれ…、私は、馬鹿な事を考えた。おまえが…、おまえが、逝ってしまうのではないかと…。ここから飛び降りてしまうんじゃないかと…!」
 ハルバラドが、はっと息を呑んだ。
「間に合わないかと思った…、おまえの夢をよく見る。夢の中で、私はいつもおまえを引き留めそこなう。さっきもおまえの夢を見た。おまえの死を…」
 ハルバラドは手を伸ばすと、アラゴルンの肩を掴んでしっかりとした声で告げた。
「それは、夢です」
 アラゴルンは、顔をあげて部下を見た。
「あれは夢なのか?予兆ではなかったのか?私は、時々色々なものを見て分からなくなる」
「ただの夢です。疲れた心が見せた、ありふれた悪夢。お気になさることはない」
「私は、またおまえに酷い仕打ちをした」
「あなたは、何もしていませんよ」
「おまえを死刑執行人に選び…」
「光栄でした。俺を信頼してくださったのだと。族長、どうぞ、もう何もおっしゃいますな…」
ハルバラドが静かに云った。
 


 ローハンの丘陵に沈み行く夕陽が、二人の背後で最後の光輝を放っていた。その残照を振り返ると、ハルバラドはしばしその光景に見入った。
「許しを請うのは俺の方です」
 彼は、ゆっくり向き直った。
「昔、俺が犯した愚かな振る舞いが、今でもあなたを苦しめていたんですね…」
「私が、自分で招いた事だ」
「いいえ」
 ハルバラドが首を横に振った。
「違います。あなたがどうしようもなく人を惹きつけるのは、あなたの責任ではありません」
「私がもっと違う対応をしていたなら、おまえをあそこまで追い詰めなかったはずだ。私が…!」
「族長」
 尚も、何かを言い募ろうとしたアラゴルンを遮るように、ハルバラドが呼びかけた。
「終わった事を、あれこれ思い煩ってはいけません。俺達は、たぶん、あの頃どちらも愚かで、でも、あの時は互いに精一杯だったんです」
 静かな声だった。悔恨も激情も年月と経験に晒されて風化し、全てを受け入れ、全てを許した者の声だった。

 

  アラゴルンは、不思議な面もちで副官の顔を眺めた。
「おまえは…、やはり変わったな」
「ええ、あの時、あなたと最後に別れてから、俺は人生の大半を変わることに捧げてきたようなものですからね」
 ふわりと、滲むようにハルバラドが笑った。笑うと目の際に深い皺が寄ったが、それも、かつての彼には無いものだった。それは彼が過ごした年月を語り、彼の表情に深みを与えていた。
 アラゴルンに、感慨深げにその顔に見入った。幼い頃から慈しんだ少年が、いつの間にか自分を追い越し、まるで年長者のような目で自分を見つめている。どれ程の想いを経て、この男はここまで辿り着いたのかと。

 

「すまない、邪魔をしたな。祈る為にここに来たんじゃなかったのか」
 ハルバラドが、にやりと片頬で笑った。
「あなたと過ごす以上に大切な事なんか、俺にはありませんよ」
「そういう事を、臆面もなく言えるようになったとは、おまえは本当に、見た目通りの中年男になったらしい」
 あきれたようにアラゴルンが言うと、ハルバラドの笑みが、いっそう性質の悪いものになった。
「こんな戦いの最中じゃなきゃ、俺が経験を積んだのは口の上手さだけじゃないって事を証明したいものですが」
 しれっと野卑な物言いをしたハルバラドに、アラゴルンがぴしゃりと言い返した。
「疲れた、もう行く!おまえは一人で、好きなだけヴァラールに日頃の行いの懺悔でもしろ!」

 

 ハルバラドが頬を緩めた。
「是非そうなさい。今頃、エルフの王子が、あなたのお戻りをイライラ待ち構えておられる事でしょう」

 

 



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今回も、裏話はお休みです。すみません…。

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