**星を仰ぎて 2話  悪夢

 


 びょうびょうと風が鳴る。
 累々たる屍。黒い血を流すオーク。憎しみの形相のまま眼を見開き、亡骸をさらすウルク・ハイ。ゴンドールの紋章、ローハンの紋章を身につけた男達が、折り重なり倒れている。顔に複雑な入れ墨を施した、ハラドの民。風変わりな美しい布で顔を覆った、東夷。主を亡くし、傷ついた馬の嘶き。
 風は血の臭いをはこび、広大な野を嘆きと憎しみが満たしている。
 終わりだ、終わりだ、終わりだと、風が絶望の歌を歌う。
―――――――まだだ、まだ諦めぬ…!
 アラゴルンが歯を喰いしばると、風が、諦めの悪い自分を嘲笑った。
 それじゃぁ、これはどうだい?こいつの顔を見せてやろう。風が一人の男の亡骸の上を通り過ぎ、その顔を覆っていた黒いマントの切れ端を、ひらりとめくって見せた。

 

***


「ハルバラド!」
 叫んで、アラゴルンは飛び起きた。
「気が付いたの?アラゴルン」
 話し掛けられたが、彼の頭は今見た光景で混乱していた。
「ハルバラド…、ハルバラドが!」
「エステル、落ち着いて」
 自分の幼名を呼ばれ、初めてアラゴルンは、心配そうに覗き込むエルフの若殿に気が付いた。自分が高い部屋ではなく、別な部屋の寝台に寝かされている事にも。
「レゴラス…!今のは夢か…、それとも…!?」
 眉を顰めると、レゴラスは薬湯を差し出した。
「何を見たか知らないけど、とにかくこれを飲んで。君は、とんでもない者と張り合って、精神も体力も限界に晒したんだから」
「ハルバラドはどこだ!?無事か!それとも私は、彼を殺してしまったのか!?」
「君の副官なら、ちゃんとこの城の中にいる。何も悪いことは起きていない。だから、これを飲んで落ち着いて」
 暖かい薬湯の入った木の椀を受け取ろうとして、アラゴルンは自分が震えているのに気が付いた。レゴラスが、それを見守りながら尋ねた。
「夢を見たの?それとも…」
 
 アラゴルンはぐっと薬湯を飲み込んだが、その味は先ほど見た光景と同様苦かった。
「分からない。夢なのか、予兆なのか」
「彼の死を見たの?だって、君達人間は、いずれ必ず死ぬでしょう?」
 不死の種族の王子が尋ねた。


――――――そうだ。だが自分が見たハルバラドの亡骸は、今の彼と変わらない姿だった。もしあれが予兆だとしたら、そう遠い未来ではない。


「どうしておまえがいるんだ。ハルバラドはどこだ」
「酷い云われようだな、君が無事だから許してあげるけど。覚えてないの?最上階の部屋から降りてきた後、君は力尽きて倒れたんだよ。僕はハルバラドに頼まれたんだ。君があまりにも目を覚まさないから、もしや、冥王の闇の痕跡がないかエルフの目で確かめて欲しいと」
 王子の言葉に、アラゴルンは小さく息をついた。

「私は、サウロンに勝ったんだな…」
「そうらしいね、ありがたい事に」
 そう言って、彼はその優美な指でアラゴルンを上向かせると、素早く唇を奪った。アラゴルンが、慌てて顔をガードする。
「おま…!こんな時にふざけやがって!」
「今のは、さんざん気を揉まされた僕への詫び賃だよ。それと、この危険な賭けへの同行に僕を選ばなかった罰。聞いたよ、自分を殺して欲しいって彼に頼んだんだって?」
「おまえは、剣では私に勝てないだろうが!」
「どうかな」
 ふんと、エルフが嘘ぶいた。
「よほど、彼を信頼しているんだね。ドゥネダインの絆の強さを見せつけられた。僕をこの部屋に呼んだ時の彼。もしも、闇の痕跡があるのなら、自分は君を手に掛けなければならないって。努めて平静を保っているみたいだったけど、蒼白で、剣を握りしめる手が震えていた」
 それを聞いて、アラゴルンはうつむいた。
「ハルバラドは、どこだ」
「さあね、僕が君のどこにもサウロンの痕跡はないって云ってやったら、彼、急に床に膝をついてしまって。よほど自制してたんだろう。そのまま倒れるのかなって思ったけど、ぶつぶつ神の名を呼んで、後は僕に頼むってどっか行っちゃった」
 アラゴルンが寝台から起きあがろうするのに気が付いて、レゴラスが諌めた。
「まだ駄目だよ。君は、自分がどんな顔をしているか知らないから」
 引き留めるエルフに取り合わずに、アラゴルンは寝台を降りた。
「ハルバラドに会わなければ。私は、彼に酷い仕打ちをした」
「そうかな。彼は、たぶん感謝してると思うけど。君が自分を信頼してくれた証だから」
「生憎、人間の心は、エルフより複雑に出来ているんだ」
「云ってくれるね。じゃあ、ますます知りたいな。何で、彼を死刑執行人に選んだのさ。未練を持たないエルフじゃなく」
 部屋を出ようとしていたアラゴルンが、足を止めた。
 
 その通りだ。レゴラスの云う通り、なぜ、自分は辛い役目をハルバラドに負わせたのだろう。幾日も前から心に願い、呼び寄せてまで。

 
 扉に手を掛けたまま、呆然と佇んでしまったアラゴルンに、レゴラスが案ずるようにに呼びかけた。
「エステル、ごめん…。今のは僕の言い掛かりだ。嫉妬したんだよ、君達の絆に」
 アラゴルンはレゴラスを振り向いた。幼馴染ともいうべき、古い付き合いの友を。
 このエルフは昔、自分の弓矢の師でもあったのだ。いつの間にか、見た目が自分の方が追い越してしまった為、つい、ぞんざいな口を利いてしまうが。この友は、昔から、庇護ともからかいとも、どちらとでも取れるような愛情を自分に示してくる。時に、洒落にならない振る舞いに及ぶこともあるが、彼が自分を心から案じているその事を、疑ったことは一度もない。
「レゴラス…、すまない。私はおまえを心配させたんだな」
「まあね。でもいいんだ。君が無事だったんだから」
 レゴラスは晴れやかに笑うと、アラゴルンの肩をぽんとたたいて云った。

 

「ハルバラドは、たぶん西の胸壁じゃないかな。彼はヴァラールに祈りたいって云っていたから」

 

 



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今回、裏話はお休みです。いずれ、不死であるエルフと定命の人間にとっての、時間の観念と生死観について書きたいと思っています。

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