**星を仰ぎて1 高い部屋にて
アラゴルンを始めとする、レゴラス、ギムリ、メリーの旅の仲間の一行。また、セオデン王とマークの軍団長エオメル以下、ローハンの騎士達。そして、途中で合流した北の野伏達と裂け谷の双子、一同が角笛城に到着したのは、もう夜も果て、空が白みかけた頃だった。
しばしの休憩の為にそれぞれ散会したが、アラゴルンはハルバラドだけを伴い、城の最上階の高い部屋へと赴いた。
「よく私の声が聞こえたな。正直なところ、自信は無かった」
「あなたの呼び声を、俺が聞き逃す筈はない」
真面目に言ったハルバラドの顔を、改めてアラゴルンが眺めた。かつて若かったその顔に、歳月が皺を刻んでいた。目の前の男が、伊達に年月を過ごしたわけでないことは、その表情に見て取れた。
「そうか。そうだったな」
それだけ言うと、アラゴルンは手にしていた包みを部屋の中央のテーブルに、ごとりと置いた。続いて、じっと見守るハルバラドの前で、彼は腰に下げていたアンドゥリルを、鞘ごと帯剣用のベルトから外した。
「今から私は、パランティアを使ってサウロンの前に出自を明らかにする。エレンディルの後継者が世に現れたと」
族長の言葉に少なからず衝撃を受けたが、ハルバラドはそれを表には出さなかった。
「それは…、また、大胆なことを思いつかれましたな」
「時間がないからだ。さもなくば、私だってこんな賭け事のような事はやりたくない。モルドール領内にいる指輪所持・メから、冥王の目をそらさねばならぬ。他に、手はない」
言いたい事は山のように頭を駆け巡ったが、異議を唱えるのは自分の権限の外だと、ハルバラドは心得ていた。
アラゴルンが決断する事はいつもぎりぎりの選択であり、最良で最善で、しかも、一番己自身に厳しい選択だということも。
「…承知しました」
それだけ言ったハルバラドの顔をちらりと眺めると、アラゴルンは目線をパランティアに戻した。
「剣を、構えておけ」
訝しげな顔をしたハルバラドへ、アラゴルンが告げた。
「おまえに立ち会ってもらうのは、もし、私がサウロンに負けて向こうに取り込まれたならば、即座に私の命を断って欲しいからだ」
「…それは」
「負けるつもりはない。だが、冥王の力がかなり回復してきているのは、おまえも感じるだろう」
「ですが…!」
「おまえにしか出来ない。おまえの腕を見込んでのことだ。おまえなら、昔から三本に一本は私を負かしていたから」
アラゴルンが静かな眼差しで、ハルバラドを見据えた。
「もし冥王に取り込まれたら、私は、イシルドゥアの行いを凌ぐ災いとなり、この世に厄災をもたらす者となるやもしれぬ。そうなる前に私の命を絶て」
「しかし!」
思わず、翻意を唱えたハルバラドに向かい、アラゴルンは呟くように言った。
「…すまない。私はいつも、おまえに酷いことばかり願うな…」
遠い昔の記憶が、二人の胸によぎった。
自分を恋い慕ってはならぬと云ったアラゴルン。
死んではならぬと云ったアラゴルン。
ハラバルドが、大きく息を吸った。
「承知しました。引導をお渡しする役目、しかと引き受けましょう」
何も云うまい。辛いのは自分ではなく、この人だ。俺はこの人が望むなら、どんな事だってやってみせる。俺は、もうこの人に愛をせがんで駄々をこねていた若造ではない。
アラゴルンはほっとしたように顔を緩めたが、ふと思い当たり、訝しげにハルバラドを見つめた。
「おまえ、まさか…」
「ご心配なく。あなたを殺したあと、後追いなんかしませんよ」
アラゴルンの懸念を察知して、ハルバラドが陽気に云った。
「あなたと心中するのは魅力的ですが、あなたには迷惑なだけでしょう。あなたを失えば、この戦いに勝つ望みはまた少なくなりますが、俺はドゥネダインを率いて、最後までサウロンと戦います。その時は、文字通り弔い合戦になりましょうが」
目を見張ると、アラゴルンが思わず呟いた。
「おまえは…、変わったな」
にやりと、ハルバラドが笑った。
「嬉しいですね、俺はずっと変わりたいと望んできましたから。もちろん、この髪の生え際の白いもののことを云われているのでなければですが」
「見た目も変わったが…、なんだか」
昔、自分を思い詰めた目で見ていた男が、今おだやかな表情で立っている。おだやかで、深い眼差しで。
「あなたは、変わらず美しいですね」
「ば…!」
馬鹿な事をと云おうとして、アラゴルンは赤面した。ハルバラドが、自分の反応に、にやにや相好を崩したからだ。
「おまえ、からかったな!」
「年を取るのはいいもんだなぁ。あなたをワカゾウ扱いできる日が来るなんて」
「見た目はともかく、今でも私は、おまえよりずっと年上なんだからな!」
「ええ、分かっていますとも」
豊かな声でハルバラドが笑った。その笑い声は暗い部屋の隅に潜む闇をも吹き払い、アラゴルンは、己の胸をふさいでいたもろもろの心配事が、晴れやかに消えていくのを感じた。
自分はサウロンに勝てる。
アラゴルンに、確かな自信が漲った。たとえ何が起ころうと、ハルバラドが、後は最良の事をやってくれる。この、最高の腹心が。
「くれぐれも、お気を付け下さい」
最後に、緊張した面持ちでハルバラドが云った。
「分かっている」
族長が身分の証であるアンドゥリルを手にすると、ハルバラドがすらりと己の剣を抜いた。仄暗い部屋に白刃が翻り、彼は、切っ先の狙いを定めた。全てを捧げて仕える、その人に向けて。
用意はいいかと目で尋ねるアラゴルンへ、ハルバラドは厳かに頷いた。汗ばむ手に、今一度、剣を握り直す。
―――――――やってみせる。この人が望むなら、たとえどんな事だろうと。
アラゴルンは・レを閉じ、しばらく意識を統一させると、おもむろにパランティアを覆っていた布を取り払った。
冥王と、エレンディルの末裔の戦いの火蓋が、今、切って落とされた。
今回は裏話と謝辞です。
ハセヲは何故、ハルバラドを伴ったのか<別窓で開きます>