白の木の下には 1
まだ肌寒さの残る、春の早朝であった。ファラミアの朝は早い。まだ、誰も起きやらぬ朝、彼は目立たぬ身なりで、玉座のある広間の前の中庭、白の木がある噴水を見渡せる回廊へと赴く。その後、まるで逃れるように自室へと取って返すと、何食わぬ顔で寝台に戻り、侍従が起こしに来るのを待つのだ。そして朝餉を取り、今は自分のものとなった執務室へと赴くのが、彼の日課であった。
白の貴婦人、ミナスティリスへ王たる方が帰還して、まだ一年もたたぬほどであったが、その日も、ファラミアは定めた手順を律儀に守り、仕事へと向かった。
この日は、午後からは王陛下の執務室へ赴き、積み重なる諸事を相談する手はずになっていたが、最近、何故かファラミアの気分は沈みがちだった。
――――――――何故だろう。私は、無意識に陛下を避けているような気がする。
あのお方を、敬愛しているのに。お会いするのを躊躇うのは何故なのだろう。
自分に問うても答えは得られず、彼は書類から目を離すと、執務室の窓から空を見上げた。日は高くなり、早朝の肌寒さはすでに吹き払われ、大気は春の優しい空気に満たされている。――――――――この陽気では、もう間もなくだろう…。
そう思うと、また気分が沈んだ。
私を、気鬱にしているものは何だ。
若い執政は、あてどもなく彷徨う雲の行方に己を重ね、物思いに沈んだ。
その時、執務室の扉の向こうの気配が変わった。騒めきと、驚きと、歓声が伝わってくる。ファラミアが慌てて太陽を見ると、もう昼を過ぎ、とうに王陛下の執務室へと赴く時間となっていた。
いけない!私は何をぼんやりしていたのだ!?
慌てて立ち上がったが、時は既に遅く、歩幅の広い足音が執務室へと近づいて来るのが聞こえる。と、同時に執務室のドアが叩かれ、扉を守る衛兵二人が興奮した顔を隠せぬまま、ファラミアに告げた。
「執政様、エレスサール陛下のおなりです」
「馬鹿者!私に告げずとも良い!陛下をお待たせしてはならぬ、すぐにお通ししろ!」
急に叱りつけられた兵達は、慌てて後ろに退くと、執政室の扉を大きく広げた。と、同時に、共も連れぬエレスサールが現れた。
ファラミアは平伏して、王に詫びた。
「申し訳ありませぬ。こちらから伺う予定でしたのに」
「なに、私が歩きたかっただけだ。混乱させたならすまぬな。そなたらも」と、王は衛兵を振り向くと声を掛けた。
「無用に叱られてしまったようだ。すまぬ」
直に声を賜った衛兵達は、目を白黒させて、生きた伝説である王陛下の詫びを恐る恐るうけとると、慌てて元の自分の任務を思い出し、恭しく礼をして丁重に扉を閉めた。
衛兵が姿を消すと、エレスサールは、執務室の長椅子にどさりと腰を下ろして、長い脚を投げ出した。
「参ったよ、ファラミア。まだ、慣れぬ。こう私の一挙手一投足に過敏に反応されては、こちらもどうしたらいいのか分からなくなる」
「こればかりは慣れて頂かねば。それにしても、此度は全て私の失態です。お許し下さい。玉体を、このような場所へ運ばせてしまうなど。それに兵の非礼もです。いかにこの国が、王があるという事に、まだ慣れていないのかを思い知りました。陛下を扉の外でお待たせするなど」
「それは、お互いさまだ」
「それにしても…」
ファラミアは、嘆息すると顔を上げ、眉をしかめた。
「また、そのような身軽ななりで。しかも共も連れずに」
短いチュニックは、陛下の長い脚を際立たせているが、身の回りの世話をする者達に言いつけたのは、裾をひく長衣だったはず。
「これでは駄目か?面倒なのだ、裾の長い服は」
助けを求めるように天を仰いで王が仰せになると、若い執政が諭すように応じた。
「それも、慣れて頂かねばなりませぬ。貴方がそのような恰好で身軽に歩かれるから、供回りの者も気軽になってしまうのです。それと」
言葉を切ったファラミアは厳しく言った。
「服よりも大事なのは、必ず共をおつけになることです。玉体にもしものことがあれば、なんとします。陛下にお怪我のひとつでもあれば、誰かの首が飛ぶことにも、なりかねぬのですぞ」
その言葉に、王は寝椅子からゆっくり身を起こすと、若い執政を見た。
「それは、私が許さぬ」
「いいえ、これだけは譲れませぬ」
「駄目だ。私も譲らぬ」
二人は、暫し対峙したが、結局先に目を逸らしたのはファラミアの方だった。彼は、長い溜息をすると言い添えた。
「分かりました。共の者の咎は問いますまい。ですから、それは譲りますから、必ず共をお付け下さいますよう、伏してお願いいたします」
エレスサールは、しばし考えているようであったが執政に訊ねた。
「城の中でもか?私は自分の身ぐらい守れる。しかも、この城中で、それほど警戒する必要があるのか」
「そうしてくだされば、私が安心できるのです」
これは、エレスサール陛下の心に訴える、とっておきの手管であった。理屈で説くよりも、温情に訴える方が、この方は応じてくださることを、若い執政は心得ていた。
王は困った顔をしたが、不承不承言った。
「分かった。心配性のそなたの負担を軽くせよということなら」
「応じてくださり、感謝いたします」
礼をすると、若い執政は執務机にあった呼び鈴を鳴らそうとしたので、陛下が訊ねた。
「誰か呼ぶのか?」
「ええ、元の予定通り、陛下の執務室に移りましょう。その為に、あなたさま付きの警護の者を呼びます」
すると、エレスサールはそれを止めた。
「わざわざ場所を変える必要もあるまい。時間がもったいないし、そなたの方が全てを把握している筈。このまま、ここで政務をしよう」
「ですが…」
「自分の執務室にいるのが飽きたから、ここへ来たのだ。これぐらいの我儘は、許してくれるだろう?」
王が、取って置きの笑顔を見せたので、今度はファラミアが嘆息した。
「困った方だ、私を懐柔する術を身に着け始められておられるとは」
ファラミアの苦情はお構いなしに、王は朗らかに続けた。
「よし、話は決まった!ではどの件からいこう。ぺラルギアからの陳情書には目を通したが、そなたの意見も聞きたい」
結局、二人はその日、執政家の執務室でずっと仕事をした。とうとう夕餉の時間になってしまった時、ファラミアは王の身体を気遣い、一旦中断して、食事をお取りくださいと促したのだが、数々の思いつきに夢中になっている王は「面倒だから夕餉は後回しだ」というばかり。
しかたがなく、ファラミアは飲み物や食べ物を執務室へと運ばせたが、王の関心は目の前の食べ物よりも、国民の上にあるらしく。
気晴らしにこちらへ来たとおっしゃったが、王は休む間もなく立ち働いていることをファラミアは心得ていた。それほどに、此度の指輪戦争でもたらされた被害は大きいのだ。
だから、自分の方から出向くといったのに、今日は本当にどうかしていた。
この方らしいといえばその通りなのだが、これでは身体が弱ってしまわれる。一口だけでも、何かお勧めせねばと逡巡した時であった。不意に自分の後方の気配が消えたような気がして、ファラミアは振り向いた。
すると、長椅子に横たわり、エレスサール陛下が寝入ってた。安らかに寝息を立て。
均整の取れた胸が、穏やかに上下している。
ファラミアは目を見張った。何故なら、それは自分には決してできぬ真似であったから。人前で、心を許して無防備に眠るなど。
この方は、何故こんな事がおできになるのか。ずっと素性を隠した野伏の暮らしであったのに。
「…陛下」
試しに、そっと呼びかけてみたが、王の安らかな眠りを破ることはできぬようであった。ファラミアは、自分の目が信じられず、眠る王の傍らへ行くと、まるで珍しいものを見るように、瞬きも忘れその姿を眺めた。
緩やかな癖をもつ黒髪が、寝椅子の肘掛けに広がっている。ファラミアに、いつも静かな星の輝きを連想させる蒼みがかった灰色の瞳は閉じられ、長い睫が、美しい稜線の頬に影を落としている。
「…陛下」
再び呼んでみたが、エレスサース王は「…ん」と小さく呻くと、寝返りをうってしまわれた。
お苦しいのだろうか、襟元を緩めて差し上げた方が…。
無意識に、ファラミアが、陛下の喉元の襟に手をのばした。だが、エレスサールの襟元からのぞく肌が、蒼い陰りを帯びて息づくのが見えた途端、ファラミアの手が中空に留まった。そして彼は、己の手をもう一方の手で諌めるように掴むと、急いで壁際に退いた。
彼の鼓動が、早鐘を打つ
―――――――――私は、何をしようとした!?
違う!私はただ、陛下の襟元を緩めてさしあげようとしただけ…!
自分に言い訳しようとしても、呪われた運命のような天啓が彼に訪れた。
いいや、おまえは思った、その襟の先の、肌に触れたいと。
――――――――――違う!そんな筈はない、私はただ…!
では、その、猛るおまえの下肢は何なのだ。
まぎれもなく、己の中芯の昂りを感じると、地に躰がめり込むような気がした。
彼は、しばし呆然としていたが、呼吸を整えると、壁にすがるように歩いた。そして扉をたたくと、外を守る衛兵を呼んだ。
現れたのは、今日自分が叱りつけた者ではなかった。既に交代がなされたのであろう。ファラミアは言った
「このお方を…、」
言いかけて首を振ると、彼は居住まいを正して兵に命じた。
「ゴンドールの27代目執政、ファラミアが申し付ける」
命令を待つ兵達にも彼の緊張が伝わったが、発された言葉はごく短いものであった。
「エレスサール陛下を、寝所にお連れ申せ」
BGM:Chopin Ballada g-moll op.23
…これだから、ダダもれフェロモン発生装置は…。