白の木の下には 2

 


 

 あれから数日へた朝、ゴンドールの執政ファラミアが執務室に赴くと、部屋を整え炉に火を入れていた侍従がうやうやしく礼をした。
 ファラミアが執務室の机につき、いつものように書類と手紙に目を通し始めると扉を叩く音がした。侍従がいかにとファラミアを伺うと、ファラミアは一瞬ためらったが、軽く頷いて扉を開けるように促した。 この一瞬のためらいは、幼少の頃より仕えている侍従にしか見分けがつかぬごく微かな動揺であったが、侍従はそれを下仕えの見事な所作で、気がついた素振りを微塵もみせなかった。

 入ってきたのは礼装の衛士であった。兜の両脇に白い鳥の羽をつけた、白の木を守る噴水の衛兵。
 名誉な役を仰せつかった若い兵は、執政に向かって礼をすると、興奮を抑えきれぬような様子で、今年一番の寿ぎの言葉を恭しく口にした。
「謹んで申し上げます。本日夜明けエレスサール陛下の御代を祝して、白の木の最初の花がほころびました。」
 ファラミアはその言葉を受け取ると、一瞬その言葉を味わうように目をつむり、再び目をひらくと若い衛士に労いの言葉をかけた。
「大義でした。陛下の御代の長からんことを。して、陛下にはもうお伝えしましたか?」
 執政の言葉に若い衛士は驚き、しどろもどろに答えた。
「も、申し訳ございません!典礼ではまず執政様にお伝えするようにと」
 その慌てふためいた若者の様子に、ファラミアは苦笑した。
「それは、あなたではなく私の誤りです。去年まで、この国には最初にお伝えする方がいなかったのですから。典礼を書き変えなければなりませんね。」

 自重するようにいうと、ファラミアは立ち上がって若い衛士に背を向け窓から外を見た。眼下にはミナスティリスの円環都市が広がり、中庭の噴水も白の木も見えなかったのだが。

「わ、私はどうすればよろしいのでしょうか」
 ファラミアの後ろから、若い声が当惑したように尋ねた。
 執政は、くるりと振り向くと衛士に微笑んだ。
「陛下はまだお休みかもしれませんが、慶事ですので構わないでしょう。行って、陛下と夕星さまへお伝えなさい。こういう使者は、あなたのように春のような若者にこそふさわしい」
 思いがけず、大切な使者を仰せつかった若者は、目を見張ると見る間に頬を紅潮させた。だが、救国の戦士であり、幾年も民衆が待ちわびた伝説の王に直接接する機会を、逃す者があろうか。半ば宙に足が浮いた様子であったが、若者は勇んで返事をすると精一杯の礼儀で執務室を辞し、扉の向こうに弾むような足音を響かせて去っていった。

 事の成り行きを見守っていた侍従は、小さく咳ばらいをすると、幼い頃より慈しんだ執政家の若者にさりげなく声を掛けた。
「若が参られた方がよろしかったのでは?」
「……」
 ファラミアはしばらく言葉を発さなかったが、改めて侍従に向きなおった。
「私には、やらねばならぬことが山積みですからね。まず、典礼長を呼んで下さい。至急典礼を書き改めなければ。それと礼砲の用意。陛下の事ですから、花が咲いている間民衆に中庭を開放せよとおっしゃることでしょう。警備の手配の手配が必要です。それから」
 頭の中に浮かんだ事柄をざっと口にすると、ファラミアは何かを振り払うように雑務に没頭していった。

 

 春の宵、七層の白い壁に囲まれた円環都市ミナスティリスは、浮き立っていた。王と執政の花押が押された触れ書きが、国中を祭りに変えた。

いわく、白の木が王の帰還を寿ぎ、今年もまた花を咲かせたこと。
いわく、花が咲いている間ミナスティリスの最上階の中庭が解放され、誰でも花を見るのが叶うこと。
いわく、期間中ミナスティリスの酒場では、王の名において振舞い酒が饗されること。
いわく、吉日を選んで王と王妃が、白の木の前で参賀を模様されること。

 

 勇壮かつ優美な白い塔のそびえる、白の貴婦人、ミナスティリス。
ペレンノールを見晴るかすエクセリオンの塔の最上階に、ファラミアはいた。外には、松明をかざした行列の明かりが美しく際立っている。
 自分が発した触れに、民衆の歓喜はことさらだった松明の行列はペレンノール平野を横切りオスギリアスへと連なり、南街道を埋め尽くし、このミナスティリスの大門へと連なっている。

 

 結局、自分は今日一度も王に会っていない。伝令が執政と王の間を飛び交いはしたが、二人の間には一切の齟齬がなく。「全て執政殿にお任せする」と、陛下からの最後の伝令を受け取ったまま、今に至る。王に一番近い身であるはずの自分が、何故か一番遠いというこの運命のおかしさよ。

 それでも、ファラミアは眼下に広がる光景に満足していた。あの燈火の群れ。あれこそが、いかほどに王が国民に愛されているかの証であり、自分はその代弁者にすぎぬのだ。
 今日はよく働いた。深夜で閉まるミナスティリスの大門が閉じるのを見届け、ファラミアが、ひとり祝杯をあげようとしたその時だった。

「執政職についてから、南の野伏の勘が鈍ったか」
  ファラミアの脇から、思いがけぬ声がした。
 若い執政は、自分がうろたえている事を悟った瞬間、できればその場から消え去りたいと思ったのだが、彼の礼節がそれを許さなかった。
 ファラミアは嘆息し、声の方向に向き直ると、頭を下げたまま主の姿を見ずに言った。
「全く面目もありませぬ。おいでになったとは。このような場所をご存じとは、あなたを出し抜くことは、容易ではありませぬな。陛下」
問われたエレスサールは、笑いを含んだ声で応じた。
「この都の事は、隅済みまで知っているからね。だが、そなたの邪魔をするつもりはないよ、ファラミア」

 ファラミア。自分をこの名で呼ぶのは、妻以外には今ではこの方しかいない。ファラミアは覚悟を決めると伏せた眼を開いて、相手を見つめた。
部屋の影の壁に置かれた、肘掛のある椅子の上に、その姿はあった。自分の提言を受け入れてくださったらしく、先日の簡素な身なりとは違う、裾を引く黒い帳のような長衣を纏っておられる。裾や、あちらこちらに星の文様を銀糸で縫い付けたその衣は、夜空を纏っているようであった。


 春の夜。朧ろ月に霞む痩身の声の主。顔が陰に隠れようと、その人の目は青く星のごとく瞬いているはずだ。自分が、この国が待ちわびた、ただ一人の王、エレスサール陛下。

「今日はよく働いてくれたようだから、一緒に祝杯をあげようかとここで待っていたのだ。だが、ひとりの方が良かったか?」
 囁くようだが、からかいを含んだ陽気さが聞き取れる。今日だけは、この声を聞きたくなかった。ましてや、姿を。だが、それも宿命。甘美と呪いの両面を併せ持つ宿命。


 ファラミアは、わざとらしく溜息をつくと迷惑そうに言った。
「警備の者から、さっそく苦情が来ております。陛下は参賀の時だけではなく、ここへ来る全ての国民にお会いになりたいとおっしゃったとか。ゴンドールの兵士の寿命を縮めるおつもりですか?」
「それほど、無謀なことか?」
 呑気にいった相手に不意にムキになれたのは、月明かりで姿が朧げにしか見えなかったせいやもしれぬ。
「また、私に同じ事を言わせるのですか!?万が一の事があったら、なんとします!未だモルドールの勢力も跋扈しているというのに。あなたに何かあったら、この国の嘆きがいかに深いか、あの」
 ファラミアは大門が閉じても去らずに、門の前で夜明かしをしようとしている燈火の行列を指さした。
「あの人々の明かりを見てもなお、あなたはまだ、自分をすげ替えの効く首のひとつでしかないといい張るのですか!?」

 月の前を雲がよぎった。

「ファラミア」
 王に名を呼ばれ、ファラミアは身じろぎをした。
 名を呼ぶと、エレスサールは薄い闇の中をたぐるように腕を伸ばし、ファラミアの肩に手をかけようとした。一瞬、おぼろ月夜の夢幻の中に取り込まれたようにファラミアは思ったが、彼は慌てて敬愛する王の腕から逃れた。
「陛下。何か企まれておいででも、今朝あなたを訪問した若者のようには、私はあなたに盲目に仕える訳にはいきませぬぞ」 そういうと、ファラミアは王を睨みつけた。
 痩身の王は、一瞬なんのことかわからぬという風をしたが、朝一番に寝所に訪れた噴水の衛兵を思い出すと、やっと合点がいったというように朗らかに笑った。
「何のことかと思えば。何故あの者を引き会いに出す?たしかに朝の使者にふさわしいすがすがしい若者であったが」
「どうせ!」
  何故か無性に腹が立って、ファラミアはいきりたった。
「私は小姑のように口うるさくて、すがすがしい使者という訳にはいきませんからね!かの若者が、お気に召してくださったのなら何より。私の選択が正しかったということに、他なりませぬゆえ!」

「ファラミア…?」
 執政の苛立ちに当惑して、再び王が名を呼んだ。

――――――――私の名を……何故呼ぶのです。あなたは!その祝福された声で、いっさいの疑いを含まぬ声で…!私は…、あなたの信頼に値せぬ者だというのに………!

 

「陛下…、私をねぎらいにきてくださったと、おっしゃいましたよね」

 

 努めて平静を装った声で、ファラミアは問うた。
「無論だ」
 エレスサールが躊躇いなく答えると、ファラミアは王の顔間近に迫って再び問うた。
「では、褒美に口接けをしてもよろしいですか?」

 王が答える間もなく、ファラミアは陛下の間近まで顔を寄せその瞳に見入ると、不意に跪いた。

 春の夜。月も曇り、祭の前の、気分だけが浮かれたまま、何もかもが曖昧糢糊と流れてていく夜。
 エレスサールが纏う夜のような黒衣。黒地の薄布の裾には、ゴンドールの意匠、白の木を囲む、星の文様が銀糸で織り込まれている。

 

 ファラミアは、最愛なる人にぬかずきて、その裳裾を恭しく頂くと、それに口接けを落とした。

 

 白の木に花が咲く。爛漫と狂おしく。あの美しさには堪えられぬ。あれは、私が受け止めるには美しすぎる。その美しさは、私を狂わせる。
 我は、たかが定められた命の者。その美しさに、気高さに、ただ圧倒される小さき命。だが、自分の器とはおかまいなしに、花は咲きこの方はあるのだ。

 

 花が咲く事を無上の喜びとしながら、誰よりもそれを恐れていたのは私だ。

 

 イルーバタールよ、ヴァラールよ。何故試練を与えたもう。命より大切に思うこの人に、何故これほど強い邪恋を抱かせたまう。

 この方は、私の汚れた手で、触れてはいけない方。
 だが、この人は、全てを包みこもうと、その浄き御手を差し伸べる。

 イルーバタールよ、これは試練ですか。
 この方への、愛の深さを試したもうか………。

 王の足元にぬかずきて、裳裾に口接けをした後、ファラミアはやっと彼の人の顔を見上げた。

 薄青い、星と見紛う瞳は、いつものように静かに瞬いてる。

「ねぎらいを施されたかったのなら、これで充分です…」

 エレスサール王は当惑していたが、静かにいった。

「それが、そなたの望みなら…」
「これが私の望みです。あなたのようなお方を主としていただくのは、臣下にとって無常の慶び。命の限り、お仕えさせて下さい」

「お前は、わたしでいいのか?」

 残酷とも思える問いにファラミアは答えた。

「あなたに仕えたいのです。未来永劫」
どうか、この勤めを、今生に成し遂げん。

――――――――白の花が初めて咲いたとき、私は、幸福と絶望が同時に存在することを知った。
毎朝、誰よりも早くあの木を確認するのが習慣になっていた。
私は知っていたのだ。あの衛兵の若者が訪れる前から、あの花がほころびたことを。毎朝、畏れと期待を胸にあの花を見るのが習慣だったから。誰あろう私は知っていた。あの花が咲いた瞬間を。

でも知るのが怖かったのだ。この気持ちが、尊敬する方にお仕えする喜びなのか、それとも、それを超えた何かなのか。

何かであってはならなかった。
陛下は、俗人の私などが触れてはならぬ方。
直系のヌメノールの血をひくまれ人で、それ以上に王となるべく生まれた方であり。

陛下に初めて会った、あの死の淵から生還した時から命は委ねていた。
だが、この世には、命ですら贖えぬものが存在するとは。

 

陛下は私の全て。肉欲をもって陛下に触れたらば、その手を切り落としましょう。
陛下に欲情するなど、万死に値する不敬。
この邪まな想いは、滅びの海へと流しさるべきもの。

だから、許してください。
陛下、ただ一度だけ僕として、あなたの裳裾に口接けすることを。
何卒、我が心を、あなたの足許に置かせ給え。

私は、それ以上を望みませぬ。
それ以上を望んだ時は、自らの愚かさを道連れに天の裁きを受けます。

ですから、この最後の口接けを。
我が、敬愛するエレスサール陛下へ。

あの白の木の下には、押し殺した私の想いが埋まっている。
決して、誰にも知られてはいけない秘密。

誓います。この想いを、執政家の冷たい石の墓まで持っていくことを。
白の木よ、歌え。私の葬送の歌を。

我が敬愛する、ただひとりの方。
我が王、エレスサール陛下。

 

 

―――――――――あの木の下には、永遠にあなたを抱きしめた、私の想いが埋まっている。

 

 


BGM:Beethoven Piano Snata No.14 In C Minor,Op.27 No2 Moonlight 1 Adagio sostenuto



えー、ぶっちゃけ、白の木って散ったりせずに永遠に咲いていそうなんですが、日本人ならではの、桜になぞらえたファンフィクということで、多目に見てやって下さい。 無論、この話は、梶井基次郎の「桜の樹の下には」から想を得ました


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