梢の葉が青々と繁り、いかにも夏めくころの事であった。朝まだき、エルロンド卿の住まう裂け谷は、いつもの静けさとは打って変わり、熱気に包まれていた。それは、季節のもたらす暑さのゆえではない。今日という日、谷では中つ国中のエルフ達が集う、武術大会が催されていたのだ。
ロスロリアンや闇の森のエルフ達も、腕に覚えのある者は皆、またそれを見物する者達やらが集っていた。静寂と、谷を囲む無数の滝から、急湍となって流れ落ちる水音のみが満ちる裂け谷は、この日ばかりは、笑いさざめく美しいエルフ族が行き交う社交の場となっていた。
その中に、長い漆黒の髪を持つエルロンド卿の双子の公子達に挟まれ、一人の幼な子がいた。年の頃は10歳ほどであろうか。公子達と同じ黒髪の子どもは、エルフ族の一人とも見えたが、丈高く、皆一様に歳月を感じさせぬエルフ達の中にあって、ただ一人の子どもは異質と見えた。
庭に張られた天幕の下にいるエルロンド卿へ、優雅に挨拶をするエルフ達を驚きの目で眺めながら、子どもは双子の公子達に囁いた。
「義兄上、谷の外には、こんなに大勢のエルフがいるのですね」
二歳の時からここにいるこの幼な子は、まだ一度も谷の外に出た事がない。この子には、何もかもが珍しいようであった。公子達は・A時折二人の姿に気づいて礼をしてくる客人達に、見事な所作で会釈を返しながら、幼な子に答えた。
「中つ国のエルフも、ずいぶん少なくなったのだけれどね」
「まだまだ。今日いらしているのは、ほんのわずかな方達だよ、エステル」
エステルと呼ばれた幼な子は、それを聞くとますます目を見開いた。
とりどりに翻る紋章のついた旗の読み方を、双子達が幼な子に教えている時だった。風に乗って、切れ切れの会話が聞くとはなしに聞こえてきた。
「…エルロンド卿も酔狂な。これで何人目だ」
「全く…、卿は未だに、望みを捨てておられぬご様子…。……に、なる見込みのない者を、また育てられていると、聞いてはいたが…」
エステルが、反射的に声のする方向を振り向いた。だが、そこには取り澄ました顔のエルフ達がいるだけで、会話の主は分からなかった。
幼な子は、何故か自分の胸がざわざわと、耳障りな音を立てるのを感じた。
…今の会話は、何だろう…?何か、僕と関わりがある?…ような…?
「エステル、前をお向き」
エルラダンが、そっと促した。
「そう、お前も、今日はお客人をお招きする側だからね。僕らのように、胸に手を当て、きちんとお辞儀をするのだよ」
エルロヒアが、手本を示してみせた。
子どもは、それをぎくしゃくと真似ながらも、頭の中は先ほどの会話の事で一杯であった。
…義兄上達に、今の会話は聞こえなかったの?僕よりも、とてもお耳がいいはずなのに、本当に聞こえなかったの?どうして…?
子どもの頭の中が、疑問符で一杯になり、溢れそうになった時だった。さざめいていたエルフ族の一団が、一瞬静まり、さっと道を開けた。すると、そこへ旗持ちを先立て、ひと際印象的なエルフが現れた。
金色の長い髪のエルフ。そのエルフは、ひと塊の集団を従え、入場してきた。
「おや、これは」
笑みを含みながら、エルラダンがエルロヒアに囁いた。
「やはりいらしたね。相変わらず、綺羅綺羅しいお方だ」
珍しく双子達の方から会釈をすると、その金髪のエルフは、軽く頷いて、ちらりと真ん中に立ちすくむ子どもを一瞥した。彼は、何事もなかったかのように、自分の一族を従え、風のように軽やかな足取りで去っていった。
「…今のお方は、どなたです?」
立ち去る後ろ姿を目で追いながら、子どもが訊ねた。
「お前の目にも、留まったかい?」
「今の方々は、闇の森のご一族だよ。先頭にいらしたのは、闇の森の王スランドゥイルさまのご子息、レゴラス殿」
…レゴラス…。ええと、レゴラス…、グリーンリーフさま?
お名前だけは、聞き覚えがあった。
エステルは、養い親のエルロンド卿から、この武術大会にお招きした方々の、名前と系図を叩き込まれていた。
…あんなお方は初めて見た。少なくとも、裂け谷のエルフ達の中には、あんな方はいらっしゃらない。何だろう?何が違うの?金色の髪が珍しい訳じゃなく…、だって、僕のお師匠さまも、豊かに波打つ金の髪をお持ちだ。
何か、自分の気持ちをぴたりと言い表す事は出来ぬものかと、幼な子がまた頭を悩ませ始めると、まるでその思いを断ち切るかのように、谷中に、清々しくも勇ましい角笛の音が鳴り響いた。
「武術大会が始まるようだね」
「さあ、エステル、僕らも見物に行こう」
谷の建物の外の敷地には、あちらこちらに花綱で仕切られた会場が用意され、それぞれの場所で長剣、短剣、馬上試合、弓矢の各部門に分かれ、予選が行われる。トーナメント方式で勝ち上がった者の最後の二者が、一番広いメイン会場で優勝を競うのである。
まずは、メイン会場で、エルロンド卿の厳かな謝辞と開幕宣言と共に、武術大会は始まった。続く式典では、裂け谷に住まう上級エルフのグロールフィンデル公の、剣舞が披露される事になっていた。
白銀(しろがね)の鎧に長く裾をひく深い藍色のマント。舞の為の幅広の長剣を携えた金華公が立ち出でると、それだけで会場から一斉にほうと溜息が漏れ、さざ波のように広がっていく。金華家の宗主たる、グロールフィンデル公は、エルフ達の中にあってもひと際丈高く、武人たる堂々とした風格を備えている。
公は入場すると、足を止め、入り口近くの最前列、双子の公子達に挟まれ、期待に胸を膨らませている彼の小さな弟子を振り返えり、声をかけた。
「エステル、良く見ていなさい。これから舞うのは、剣の基本の型を、忠実に舞に転じたもの」
朗々と響く声に、一斉に会場の注目が集まった。
「はい、拝見いたします」
子どもが立ち上がり、ぴょこりと愛らしい仕草で礼をした。耳目を集めたのは、自分とは露知らぬ様子で。両側にいる公子達も、立ち上がると公に向かって礼をした。
(金華公、・エ謝いたします。これで、エステルがあなたの庇護下にあることが、中つ国中のエルフに広まる。もう、この幼な子に、陰口を叩く者はおらぬでしょう)
公子達と金華公の間で、無言で取り交わされたやり取りをも、幼な子は知らぬ。
エルフの楽師達の調べに合わせ、金華公が優雅に、勇壮に剣舞を舞いはじめた。マントが翻り、その藍色と豪奢に波打つ、金の髪が、交わる。剣を構え、振り上げて、振り降ろし、空を裂く。
幼い弟子は、頬を紅潮させ、食い入るように師の剣舞を見つめる。小さな手を握りしめ、喰らいつこうとする、その集中力。いとけない幼な子が、発する、その気迫。
弟子の気を、すり抜けるように、剣舞は静寂を保つ。弟子の気は、振り落とされぬよう、輝くように集中を増す。その気は、小さな珠が発光して瞬くように綺羅めき、光を四方に放つ。勢いと速度を加速させ、更に遠く、更に強くと、伸びやかに熱気を孕んで谷中へ広がっていく。
見守るエルフ達に、衝撃が走る。
―――――――――あの人の子は、何者だ。何者だ。エルフ達が騒めいても、幼な子はひたりと集中を途切れさせぬ。
金華公の紡ぎだす、無心の剣の舞。その中心で、爆発寸前の星の如く、強い輝きを放つ10歳の幼な子。鎮めようと、無を保つ、静寂の騒がしさ。逆流する流星のように、いや増す輝き。
師と弟子は拮抗し、高揚が、その場を支配する。
―――――――――師弟の間に生じる、嵐と稲光のような気迫に、その場にいた全エルフ族が、なぎ倒おされそうになりかけた。
その時楽の音が終わり、グロールフィンデル公が、最後の型を保ち、静けさを幾重にも投げかけ、その場を完璧に収めた。
誰も動かなかった。
皆いちように、今起きた出来事が、信じられぬという面持ちであった。
我らエルフ族が、たった一人の幼な子に、飲まれかけたなど。
エルフ達は、茫洋とした眼差しで、幼な子を見た。しかし、幼な子はまだ集中を保つため、目を閉じ、気を収めようとしているところであった。しばし微動だせずにいたかと思うと、突然、ぱっと目を開いた。その瞳は、淡い青灰色だった。
その子は、夢から覚めたようにぱちくりすると、ふうっと大きく溜息をつき、みるみるうち萎れて、落胆の表情をした。
「エステル・Aエステル、大丈夫かい?」
エルラダンが囁きかけると、子どもが泣きべそをかきそうになった。
「やっぱり、駄目です…。お師匠さまは、いつも静かに集中を保てとおっしゃるのに、どうしても上手くできません…」
「そんなことはない。お前は、随分上手にやったよ」
甘やかすように、エルロヒアが囁いた。
「義兄上達は、お優しすぎるから。僕は、もう子どもじゃありません」
不服そうな幼い声に、双子の公子達は、目を見かわすと微笑を深めた。
その時、高らかな声が響いた。
「ブラボー!」
立ち上がり、拍手を始めたのは、闇の森の王子であった。彼の拍手と歓声に、緊張していた場がほぐれ、ぱらぱらと拍手が連なった。と思うと、それは、歓喜となって全てのエルフ達が立ち上がり、惜しみない拍手から喝采へと変わった。
周りの様子に、子どもは慌ててぱっと立ち上がると、自分も小さな掌で、一心に拍手をした。
「ああ、でも義兄上たち!お師匠さまの舞は素晴らしい!本当に、素晴らしかったですね。僕もっと頑張ります」
子どもは興奮した面持ちで、目を輝かせた。
エルフ達は興奮も冷めやらない様子で、それぞれお目当ての競技種目の会場へと散っていく。
明らかに、谷の雰囲気は、早朝とはがらりと変わっていた。
舞の為の装束から着替えてきたグロールフィンデル公は、散っていくエルフ達を静かに見守る谷の主、エルロンド卿に話しかけた。
「私が、声をかけるまでもありませんでしたね。結局、あれは、自分の力でエルフ達を納得させてしまった」
「いや、公のご配慮、痛み入ります」
谷の主が、初めて口を開いた。
通りすがりに、一人のエルフが、エルロンド卿に声をかけた。
「良いものを拝見させていただきました。楽しみな若子さまですね」
「いえ、お騒がせして面目もありませぬ。まだ幼いので、躾けが行き届きませぬゆえ、お許しを。遠路はるばるお越しいただき、このような不始末を」
独特の、流れるような所作で客をあしらうと、エルロンド卿はまた、気遣わしげに、先ほどの騒ぎの張本人、エステル少年が、興奮が冷めないまま、手振り身振りで、師匠の剣の型を再現して、双子の公子達に披露している様を見つめた。
「…どう思われます。あの子を」
子どもから目を離さぬまま、エルロンド卿は、隣・ノ並ぶ金華公へ問いかけた。
「正直、今日は驚きました。あれほど激しいとは。…実は、少々手こずりました」
「そうでしたか。貴公には、いつもご面倒をおかけする」
「貴方は、心配ばかりされておいでだ」
公が問いかけると、エルロンド卿は堅い口調で応じた。
「私は、まだ信じていないのです。あれが、龍になるのか、もしくは…」
――――――――――――――――――――――――――また、失うのか。
我が半身の形見、エルロスの末裔を、幾多り育て、失ってしまったのか。
だが、今目の前で起きた出来事に、誰よりも驚いているのもまた、彼であった。
あの子を、正しく導くことが出来るのか、この私に。間違えば、厄災に転ずる事もあるやも知れぬ、未知数の、厖大なエネルギーを持つ、あの新星のような子どもを。
「まだ、始まったばかりです」
己を律するように、谷の主の声は堅いままであった。
今ひとり、幼な子をじっと見つめる者がいた。風に、真っ直ぐな金の髪が煌めく。
「王子、そろそろ、弓矢の競技が始まります」
「ああ、今行く」
短く応じたが、緑葉の王子は、メイン会場を囲む観客席の一番高い場所から、腕を組んで、幼な子を眺めていた。今朝一瞥した時は、一切の興味を持たなかったのに。
「これはなかなか、面白い場に居合わせたものだ」
呟くと、彼はひらりと身を交わして、弓矢のトーナメントの会場へと去っていった。