裂け谷の幼な子ー2話
裂け谷に設えられたトーナメントの会場のあちらこちらから、歓声が上がる。
「エステルはどの競技が見たい?」
「全部!全部です。どうして、身体はひとつなんでしょう?」
双子は、エステルの希望に沿うように、それぞれの会場を見物して歩いた。長剣、短剣、馬上試合、どの試合も子どもは目を輝かせて見入る。
「凄いですね!あの剣捌き。僕もいつかはあんな風になれるのでしょうか」
長剣の試合に目を輝かせる子どもに、エルラダンは優しく答えた。
「おまえは筋がいいから、大きくなったらあの勝者達を負かしてしまうかもしれないよ」
「もちろん、たくさん訓練を積まなければいけないけどね」
エルロヒアがやんわりと釘を刺すと、子どもは急に神妙な顔をした。
「あの、僕、弓矢の競技が見たいのですが」
弓矢のトーナメント会場では、最後の決勝戦に臨む、2組目の試合が行われようとしていた。
矢を射る檀上に、まず、ひとり目の競技者が現れた。それは、赤い髪の美しい女エルフであった。続いて、その相手方が現れると、トーナメント会場がわっとどよめいた。その歓声には、何故か笑い声も含まれている。
競技者の後方には、旗持ちが控えている。このような競技会では、競技者を支持するご婦人方が、自分のドレスの片袖を応援の印として送る習慣がある。旗持ちの旗竿には、その片袖が結び付けられる。
二人目の競技者が会場中を沸かせたのは、旗竿に色とりどりのご婦人方の片袖が所狭しと結ばれ、風にはためいていたからであった。その旗持ちを引き連れて登場したのは、あの印象的なエルフ、緑葉の王子。
王子は、さも当然というように会場の歓声に応えて大きく手振ると、自分が弓矢の腕を競う相手の女エルフにも会釈をした。
「これはこれは、如何にもあの方らしいことだ」
エルロヒアが、笑いながら言った。
「満艦飾とは、まさにこの事」
応えて、エルラダンが揶揄すると、幼な子が不思議そうに訊ねた。
「満艦飾とは、なんですか?」
「そうだね、エステルはお舟を見た事がないものね」
「あります!えっーと、あの…、ご本の中の絵だけですが…」
勇んで答えたものの、急に自信が無くなって、子どもの声は小さく萎んだ。
「満艦飾とはね、祝祭の時などに、船のマストを旗で飾り立てる事をいうのだよ。ほら、あんな風に」
「えっと、つまりあの方は、ご婦人に人気があるのですね」
「そういう事だね」
赤い髪のエルフの旗竿にも、エルフの殿方から送られた、紋章のついたペナントが幾つかひらめいていた。中でも一番大きく目立つのは、闇の森の王家の紋章がついたペナントであった。だが、赤い髪のエルフは、そのペナントの送り主、レゴラス王子に無表情で会釈を返しただけであった。
華やかで、たいそう目立つ緑葉の王子を見ながら、エステルは気が付いた。
…わかった!他のエルフ達と違う所が。あの方は若い、若いんだ。不死のエルフ族は、皆一様に老成して見える。でも、あの方はきっと、とても若い。もしかして、あの方なら分かって下さるかも…。
「的中!双方10点」
タン!タン!と小気味いい2つの音が的に当たると、判定者が叫んだ。エルフ族には弓矢の名手が多い。その為、この競技は一風変わっていた。一射ごとに、的が離れていくのだ。
遠くなった的を見据え、レゴラスが矢を放った。
「的中!10点」
だが、次に射た赤毛のエルフは、わずかに的を外した。
「タウリエル9点!」
また、的が離れていく。
エステルは、レゴラスの弓の技に魅せられていた。心・技・体。これほど、弓と一体になった射手を見るのは初めてだった。無駄な力がどこにも入っていなく、闇の森の王子は歌うように軽々と弓を射る。これはもはや、次の3射目で決勝に進む勝者が決まると、見守っていた誰もが確信した時だった。
レゴラスの矢が的から大きく外れた。
「レゴラス・グリーンリーフ0点!」
会場が一斉に落胆して、溜息がもれた。一方の相手方は、一瞬じろりと王子を睨んだが、すぐに的に集中して、その真ん中を射抜いた。
「的中!タウリエル10点」
これで、メイン会場で行われる決勝戦に進む者が決まった。王子は、何事もなかったかのように、軽い足取りで壇から降りたが、勝者のタウリエルは、しばらくその後ろ姿を不快げに睨み付けていた。だが、やがて彼女も肩をそびやかすと壇から降り、次のメイン会場へと向かって行った。
エステルは、その一部始終を見守っていたが、突然観客席を離れると、レゴラスが去っていった方へと駈け出した。
弓矢のトーナメント会場から離れた芝草の上に、レゴラスと従者のエルフ達がいた。
「…王子、何故、あんな真似を…。またスランドゥイル王がお怒りになりましょうに…」
訊ねる従者に、レゴラスは言った。
「どちらが勝っても、闇の森のエルフが優勝旗を持ち帰る事に、変わりはないだろう?タウリエルなら、必ず勝つさ」
そこに、レゴラスに追いついた小さな幼な子が現れた。彼は、まるで火の玉のようだった。
「あなたは!失礼です!!」
突然現れた子どもの剣幕に、レゴラスは、ぽかんとして目を丸くした。
「わざと外されましたね!勝負の場で手を抜くなんて、卑怯です!!」
「エステル、お止め。この方は、谷のお客人ですよ」
幼な子を追いかけて来た双子の公子達は、諌めたが、エステルの怒りは一向に収まらない。
憤慨する子どもに向かい、レゴラスは面白そうに言った。
「彼女は、僕が執心なご婦人なんだ。だから勝ちを譲っただけなんだけど」
それを聞くと、エステルは大きく息をついてレゴラスに言った。
「ちょっと、屈んでもらえますか?」
「はぁ?」
「屈んでもらえますか?」
子どもの促しに、王子が身を屈めた瞬間だった。小さな掌が、ぴしゃりとレゴラスの頬をぶった。
「これは、さっきのご婦人の分です。」
渾身の殴打に、傷んだのは子どもの掌の方だったのだが。
「あのタウリエルという方は、傷ついていました。勝ちを譲られるなんて、侮辱です!!あなたは、あのご婦人を侮辱なさったんです!反省して下さい!」
エルラダンとエルロヒアは、二人の様子を見守っていたが、内心、可笑しくて堪らなかった。
「これは、失礼しました。以後気をつけます」
わざと、しおらし気にレゴラスが謝ると、エステルが怒りを収めた。
「分かってくださったのなら、良いのです。」
すると、幼な子は、今度は態度をがらりと変えた。
「今のお話は終わりです。今度は僕からお願いがあります。」
子どもは居住まいを正すと、緑葉の王子に向かって深く礼をした。
「裂け谷のエルロンド卿の養い児で、エステルといいます。僕の、弓矢の師匠になっていただけませんでしょうか?」
目の前の、くるくる表情を変える小さな子どもの申し出に、レゴラスは唖然とした。だが、出て来た言葉は冷たかった。
「僕が、弓矢を教える?君に?」
彼は、子どもの耳にちらりと目をやると、続けた。
「君は、人間の子どもだろう。僕に、人間に弓を教えろと?」
エステルの表情が強張った。
「…人間では、駄目でしょうか…?」
さやさやと、そよ風が、裂け谷の木々を揺らす。
…僕のお願いは、いけない事だったんだろうか?エルフにお願いをするなんて、それほど大それた事だったのだろうか。
王子の沈黙に、エステルが諦めかけた時だった。
「可愛いなあ」
レゴラスは大きく破顔すると、子どもをひょいと抱き上げた。
「やめて下さい!何するんです!?」
いきなり抱きかかえられ、エステルは、慌てた。
足をバタつかせながら、必死に相手の腕から逃れようとする幼な子を見て、エルロヒアがやんわりと言った。
「緑葉の王子、その子は今難しい年頃で、触れられるのを嫌がるのです。離してあげて下さいませんか?」
そう聞いても、レゴラスは一向にエステルを離す気配はなく、自分の腕の中でもがく子どもの顔をとっくりと眺めると、更に頬を擦り寄せた。
「本当に可愛いなぁ。ねえ、大きくなったら僕のお嫁さんにならない?」
兎にも角にも、その腕から必死に逃れようとしているエステルは、話しかけられた意味など解しもしない。
「レゴラス殿」
今度は、エルラダンが云った。
「その子は、男の子ですよ」
レゴラスは少しだけ首をかしげたが、なんの衝撃もない様子。
「知ってるよ。別に問題ないんじゃない?」
「離して下さい!お願いです!降ろして!!」
エルロヒアは、エルフの王子の腕からそっと少年をもぎ離すと、地面へ降ろしてやった。そして子どもを自分の後ろに匿うように押しやると、涼やかに微笑んだ。
「もしこの子が女の童(めのわらわ)だとしても、貴方のような遊び人には、決して嫁がせたりしませぬよ」
すると、レゴラスが高く笑った。
「僕は“遊び人”って事になっているんだ!」
「貴方の艶聞は、この裂け谷にまで届いてきますからね。身分性別種族を問わず、誰彼構わず浮き名を流していると」
エルロヒアの言葉を、エルラダンが引き継いだ。
「そして、父王スランドゥイル様を、不機嫌にさせておいでとか」
レゴラスが愉快そうに言った。
「ちょっとした、反抗心の発露なんだけどな。父上が、あまりに相手の血筋にこだわるものだから。でもいったい、この中つ国に、それ程の血筋のエルフのご婦人が、幾人残っているものか。逆に、問い質したいくらいなんだけどな」
言い終わると、レゴラスはふいに真顔になり、背に負っていた矢筒から矢を一本引き抜くと、手にしていた弓につがえた。そして彼は遠くにある、薄桃色の花をつけた百日紅の木へと矢を放った。
矢は、その木の一枝の根本を精確に射抜き、たわわに花をつけた枝は、はらりと地面へ落ちた。レゴラスの側付きのエルフの従者の一人が走り、その枝を拾い上げると王子の下へと捧げ持ってきた。
エルロヒアの後ろから顔を覗かせその様子を見守っていたエステルは、見事な射手の腕前に見惚れ、知らず前へと身を乗り出していた。
従者から自分が射降とした枝を受け取ると、レゴラスは、黒髪の少年の目線に合わせて身を屈め、その花の一枝を差し出した。
「大きくなったら、僕のお嫁さんになってくれませんか?」
エステルが戸惑ったように、傍らにいる二人の兄、エルラダンとエルロヒアを見上げると、義兄達が嘆息した。
「王子」
「幼な子をからかうのは、お止め下さい」
だがレゴラスは立ち上がると、頓着しないように言った。
「もしこの子が噂通りの子なら、血筋は全く問題ない。だって…」
彼は薄く笑うと、言い放った。
「この幼な子には、上級エルフにも及ばぬ、マイアの血が流れている筈」
「レゴラス・グリーンリーフ!」
双子が、同時に鋭く叫んだ。その声音には、穏やかな義兄達からは未だかつて聞いた事のない剣呑な響きがあり、エステルを驚かせた。
「それ以上何か言われるおつもりなら、客人として扱うのは止め、すぐさま立ち去って頂きます」
エルラダンの声はいつも通りに戻っていたが、その眼は冷ややかだった。
レゴラスは、大袈裟に両手を開くと首をすくめた。
「おお怖い」
そして、エステル少年に向き直ると彼は、今度は跪き、もう一度、薄桃色の花のついた百日紅の枝を差し出した。
「僕のルシアン・ティヌービエル。貴方が成長なさったら、私、スランドゥイルの息子レゴラスと、結婚してはいただけませんか?」
今度は、さすがにエステルにも意味が分かった。彼は養父のエルロンド卿より、創生神話から中つ国の歴史までを、教えて頂いている。
ルシアン・ティヌービエルとは、エルロンド卿の曾祖母に当たり、唯一神イルーヴァタールの子の中にすら、その美しさでかなう者はないと謳われた、エルフの乙女の事ではないか。
このエルフの王子は、僕を少女扱いしている…!
かっと頭に血が昇ったエステルは、差し出された花の枝を振り払うと大きく叫んだ。
「いい加減にして下さい!僕は真剣なんです!弓を教えて頂きたいとお願いしているのに!!」
エステルの剣幕に、レゴラスは再び唖然とした。だが、少年は相手の反応に頓着せずに、更に叫んだ。
「教えて頂けるのか、頂けぬのか!?どちらなんです!?」
自分の言葉を一切無視したその少年を、驚きの眼差しで見つめなおしたレゴラスは、こうべを巡らし、その義兄達を見上げた。だが、そこには取り澄ました顔の影に、成行きを密かに面白がる表情があるだけ。
緑葉の王子は立ち上がると、それまで彼の顔にあった薄笑いを全て取り下げて、彼にしては珍しく真面目な面持ちで少年に訊ねた。
「この裂け谷には、上級エルフであり稀代の武勇の持ち主、バルログ・バスターでもあるグロールフィンデル公がおられる。先ほどの剣舞の際、君の師匠と聞いたが、何故、僕に?」
エステル少年が答えた。
「グロールフィンデル公は、確かに僕の武術の師匠です。でも弓に関しては、お師匠さまは大弓しか扱われぬのです。大弓は、僕の背丈よりも大きく、師匠は今しばらく待てとばかりと仰せになるのです」
少年は、レゴラスの背にある、持ち運びに優れた戦闘用の弓を憧れるように見つめた。
「成程。では待てばいい。いずれ教えて下さるだろう。何故焦るのかな?」
エステルは俯くと暫く躊躇っていたが、ぽつりと囁いた。
「―――――――――あなたには…、あなた達には分かりません…」
「え?」
レゴラスだけでなく、双子の義兄達も、エステルの様子に気遣わし気に少年を見た。
「あなた達は、悠久の時を生きるエルフだから…」
エステルは顔を上げると、振り絞るように言った。
「僕は…、僕は人間だから。だから、時間がないのに!」
「エステル…」
囁くように呼びかけると、双子の義兄達が両側から少年に寄り添った。その様子に、レゴラスは、この武術大会が裂け谷で開かれた真の意味を悟った。
―――――――――――――エルロンド卿は、この少年に心の準備をされて居られるのだ。まだ幼く、自分で身を守る事は出来ぬから、裂け谷の外に出る事を、禁じておいでの筈。その前に、少しずつ外の世界と触れさせ、自分の立場を悟らせ、出自を明かす準備をしておいでなのだ。
その時、ふと、レゴラスの頭を疑問が過った。
―――――――――――――この子の父、アラソルン二世が幼い時、谷で武術大会など開かれただろうか?更にその父アラドールの時、アルゴヌイ、アラソルン一世、アラッスイルの時は……?
最初に裂け谷で育ったこの少年の系譜の父祖、アラハエルまで遡ってみても、エルロンド卿が養い子の為に武術大会を催した記憶はなかった。
―――――――――――――では、何故、この子の為には?
レゴラスが、エルラダンとエルロヒアを窺うと、双子は傍目には分からぬほど微かに首を横へ振った。何も聞くなと釘を刺すかのように。
黙り込んでしまったレゴラスへ向かい、エステルは、激昂した自分を諌めるように大きく息をすると、再び、礼儀正しくお辞儀をした。
「失礼いたしました。スランドゥイル王の息子レゴラス王子。先ほどの武術大会での弓技を拝見して、是非あなたに弓の教えを乞いたいのです。どうか、僕の弓矢の師匠になって頂けないでしょうか」
少年は風変りな目の色をしていた。灰色がかった淡く蒼い瞳。まだ幼く、まるで少女のようにいとけないのに、この意志の強さを孕んだ瞳はどうだろう。
…アラソルンの幼い時はどんな子だっただろうか…。レゴラスの脳裏に苦い思い出が去来した。気が短かったな。そうだ、長じても短気だった。その気性ゆえ、ドゥネダインとしては短命の60歳で死んでしまったのだが…。
―――――――――――――この子に、父アラソルンの二の舞をさせる訳にはいかない!
レゴラスの胸に、不意に不思議な義務感が芽生えた。その強い感情に、誰よりも驚いたのは、彼自身であったのだが。
上古のエルフ族は激しかったと聞く。同族で、血で血を洗う争いをするほどに。だが、我らの種族は老いた。皆、倦み疲れ、西へと渡る者ばかり。自分も所詮はその一人。いくら浮き名を流そうとも、本気になった事などまだ一度もない。なのに、何故この少年は、自分にこんな強い気持ちを抱かせるのだろう?
「本当に、僕でいいの?卑怯な真似をして、君を怒らせたのに」
王子が、いつもの陽気さを取り戻したように明るく笑うと、エステル少年は花がほころぶ様に顔を輝かせた。
「はい!お願い致します!僕、一生懸命に頑張ります!」
事の成行きを見守っていた少年の義兄達が、微笑を浮かべた。
「良かったね、エステル」
「はい!エルラダン」
「でも、お気を付け。油断してはいけないよ。この方は、何といっても僕らよりも年上であらせられる」
エルロヒアの言葉に、少年は衝撃をうけた。彼は黒髪の双子の義兄達と、金色の髪のエルフをまじまじと見比べた。だが、どう見ても落ち着き払った義兄達の方が年上に見える。
…僕は、勘違いしてしまったの?このエルフは、とてもお若いと思ったのに。
エルロヒアが、噛んで含むように言葉を続けた。
「海千山千なことにかけては、金華公に勝るとも劣らない方だから、油断は禁物だよ」
「酷いなぁ、君達は。いったい僕を、何だと思っているんだい?」
「思った通りの事を…」エルラダンが云うと、エルロスが続きを引き継いだ。
「言った迄ですよ。緑葉の王子」
「僕には、君らの方がよほど海千山千に見えるけど。ねぇ、どう思う?――――エステル」
初めて少年の名を口にしたレゴラスは、またしても不思議な思いに囚われた。
エステル―――――――――――エルフのシンダール語で「希望」を意味する。
この名を名付けたのはいったい誰だ。アラハエルの時から、王統である事を意味するアラの文字を冠する事が慣わしである筈。ならば、これは王統である事を隠す幼名か?しかし、今まで幼名を持った者はいない。
だが、名を呼ばれた少年は、生真面目に返答を返しただけであった。
「僕にお訊ねになっても分かりません。裂け谷以外のエルフ族にお会いしたのは、今日が初めてなんですから」
「確かに。君のいう通りだね」
にこりと笑うと、レゴラスは少年に手を差し伸べた。
「では、僕の小さなお弟子さん。これからよろしく」
握手を求められたのは分かったが、エステルが怯んで身じろぎをした。そこでエルラダンが口を挟んだ。
「王子。もうお忘れですか?この子は、今難しい年頃で、他人に触れられる事を極端に嫌うのです」
「そうですよ。僕らにさえ触れさせてくれない。前は、朝な夕なに、おはようのキスとお休みのキス。行って来ますのキスに、ただいまのキスを、当たり前のようにしていたのに」
嘆くように、エルロヒアが溜息をついた。
「それって…、つまり、この子が触れられるのを嫌うのは、君達のせいなんじゃないの?」
双子は顔を見合わせると、不意に破顔して、似た声の同じ抑揚で同時に言い放った。
「まさか!」
やれやれ、どうやら僕の役割が分かってきたぞ。この過保護な双子達に代わって、谷の外の風を吹き込んで見せるのが、おそらくエルロンド卿とグロールフィンデル公の思惑に違いない。
ひとりごちたレゴラスは、小さな弟子に最初のレッスンを施した。
「エステル君。握手を拒むようでは、弓は教えられないよ。弓と一体になる為の基本の型を教授するには、時には、手取り足取り、君を後ろから抱きしめる形になる時だってある」
わざと厳しい声音で言ったレゴラスに、エステルは慌てて礼をした。
「し、失礼いたしました!あの、どうかお許し下さい!」
そして、再び差し出された師匠の優美な手を小さな掌で握り返すと、エステルはそのまま引き寄せられて、レゴラスに抱きしめられてしまった。
「ほら、こんな風にね」
逃げたい!と触れられるのが嫌いな少年は思ったのだが、彼は必死にその気持ちを抑えた。その表情がありありと見て取れたので、レゴラスは愉快でたまらず、抱きしめる腕に更に力を込めた。すると幼な子の顔がますます強張る。
「ああ、もう、やっぱり可愛いなぁ。このまま、闇の森へさらっていってしまいたい!」
言いながらレゴラスが頬にキスをしてきたもので、エステルは真っ赤になって固まったまま、おずおず聞いた。
「あの…、弓矢の練習に…、キス…は、関係あるのでしょうか…?」
「ある訳がないでしょう!!」
二つの声が、頭上から同時に降ってきた。必死に抱擁を耐えていた少年を王子から引きはがすと、双子は冷ややかに言った。
「やはり貴方は、油断のならない方だ」
「本当に。これでは、安心してエステルを貴方に預けられません」
「まさか!こんないとけない幼な子に、僕が何かするとでも?」
鈴のように笑う緑葉の王子の姿に、エステル少年は義兄達が、このエルフを海千山千と形容した理由の一端を見た気がした。
もしかして、僕は、とんでもない方を師匠に選んでしまったのだろうか?
でも、とエステルは思った。あの弓の技は見事だった。どんな練習にも耐えてみせる。
――――――――――――母上。
幼な子は、この賑やかな催し物にも姿を見せず、憩いの館と呼ばれる、この広大な建物のどこか奥で、ひっそりと息を潜めている母へ呼びかけた。
――――――――――――母上。もうしばらくお待ち下さい。エステルは、母上がお望みの通り、強くなって見せます。母上に付きまとう哀しみの影の、一切を吹き払って差し上げられるように。
少年はまだ気付いていなかったが、彼には呼び声といわれる能力がある。それは、心の中で念じて遠くの者に伝える技であるのだが、それを制御する術をも彼はまだ知らぬ。
その時、谷にいたエルフ達は一斉にその心の声を聞き取った。だが、この少年の養い親、裂け谷の主たるエルロンド卿に敬意を表して、誰も気付かぬ振りをしたが。
当然、少年の目の前にいた緑葉の王子も、その心の声を聴いた。レゴラスは、凛と居住
いを正すと云った。
「花の顔(かんばせ)に、見事な心映え。そなたの師となり弓を教えよう。上世のエルフ達が追い求めたシルマリルの如く、輝く小さな魂よ。僕の知りうる全てをそなたに与えよう」
――――――――お預かりいたしましょう、エルロンド卿。貴方の手中の珠。この、不思議な幼な子を。
彼は神妙な面持ちで、この谷の主に呼びかけたのであった。
裂け谷の幼な子〈了〉
レゴラス…初対面からセクハラ全開(笑)
ホビット2を見ながら考えていたのは、こんな話でした。レゴったら、原作にいないのに引っぱり出されてきて、おまけに振られそうなんて、不憫で不憫で笑えてしょうがなくて。(レゴ、ごめん)
スラぱぱが、身分身分とうるさかったので、それならエステル君にはマイア(ヴァラールの下位にある精霊で、女性単数形はマイエ)の血が流れているぞ〜、どうするスラぱぱ!?とかね(^^;マイアの血というのは、ルシアン・ティヌービエルの母メリアンから入っています。
と、いうことは、エルぱぱにも、双子にも入っているワケで。半エルフなのに、デコ卿が中つ国で敬われているのは、そんな事情もあるのでしょうかね?
貴婦人が片袖を送る習慣は、中世騎士道で、馬上槍試合の際、本当は槍に結び付け戦ったことからです。騎士が仕えるレディからの、応援の印です。
でも、弓矢の試合で使いたかったので、ねつ造しました。通常女性は試合には参加しないので、タウリエルにはペナントを送る事にしました。他に思いつかなかったの。毎度、色々やらかしています。