夜の贈り物

 


   バッチーン!
 勢いよく音を立てて、目の前の女の子がハルバラドの頬を張った。
「あんたって最低!最低のクズ!!」
 ドゥナダンの少女は大声で叫び、眦を吊り上げて思い切り睨み付けると、バタン!と乱暴に納屋の扉を開けて去っ ていった。
 残されたハルバラドはヒリヒリする頬を抑えると、憮然として呟いた。
「どう言えばいいんだよ。どいつもこいつも。どんなに言葉を飾りたてたってヤルことはいっしょなのに」
 季節は夏。北に位置するドゥネダインの里にも容赦なく太陽が照り付けていた。農具を収めたこの納屋の中は更 に熱気が籠り、汗がしとどに流れ落ちる。
「ここまで着いてきたクセに逃げやがって!あー!!もう!クソ暑い!」
 ひとしきり毒づくと、ハルバラドは手の甲で襟元の汗をぐっとぬぐった。
 ドゥネダインの若者、ハルバラドは16歳。時期17歳を迎える年頃なのだが、近ごろ彼は苛ついてばかりだった。
 いたずらっ子がそのまま大きくなったような若者だったのに、春ごろから様子が変わってきていた。口数が少な くなり、欝々とふさぎ込んでいたかと思うと急に誰彼構わず喧嘩をふっけかけたり、そうかと思うと里の少女達に 言い寄ってみたり。
 彼は開いたままの納屋の扉から強い陽射しが降り注ぐ戸外をしかめっ面で見つめていたが、やがてため息をつく と一歩外へと踏み出した。


 とたん彼はぎくりと身じろぎして固まった。

 熱のこもる納屋の外に出たところで、対して暑さが変わるわけでもないはずだったのだが。清々しい凉気がさあ っと駆け抜けたかと思うと、ドゥネダインの里の空気が一変しているのを彼は感じた。


――――――――――まずい!これは…!
 里の中心の方からさざ波のような歓喜が伝わってくる。
――――――――――なんで気が付かなかったんだろう…!?いつだって、最初に気が付くのは俺なのに…!


 北方ドゥネダインの族長アラゴルンは中つ国を放浪中の身だが、時折報せもなく里に帰還することがあった。そ の気配を、早いと三日以上も前に察知し、また真っ先に出迎えるのもハルバラドだった。だが、族長が里にいるの を気づいても、彼は微動だにしなかった。
 誰よりも族長を慕うハルバラドなのだが、会いたくないという想いが彼の身の内から沸き上がってきた。
 逡巡していた若者は、やがて逃げるように領主の館とは反対の方へと走り去ったのであった。


  滔々と小さな滝が川の深水に流れ落ちる。空は満天の星。ハルバラドは川に張り出した一枚岩の上にいた。その 岩は夏には格好の飛び込み場所になる。時はもう夜更け。
――――――――――族長を迎える宴はもう終わっただろうな…。
 会いたい…でも会いたくない…。二つの相反する気持ちに、ハルバラドは悩んでいた。
以前ならこんな事で悩まなかったのに、俺はいったいどうしてしまったんだろう。
 最後に族長に会ったのは今年の春だった。例年行われる種を播くための土起こしの為、村総出の作業があるのだ が、今年は族長も参加した。里の者と一緒に鍬を振るい。
 いつもきっちり着込む野伏服の足元を膝まで捲り、シャツも腕までも捲りあげて首元の襟もはだけ。族長の隣で 一緒に働いていたハルバラドなのだが、アラゴルンが一瞬動きを止めて時だった。
族長は大きく伸びをすると更に 襟の紐を更に緩め、首を逸らして流れ落ちる汗を拭った。


 その姿を見た瞬間、ハルバラドの手が止まった。時間も止まった。何か、身体の奥底から沸き上がるものがあり 。


 それからだった。彼は夜毎夢を見るようになったのは。夢の中に、族長の逸らした白い喉が浮かぶ。ハルバラド はその喉元に手をはわせると、震える手で野伏服の紐を解いていくのだった。
そして露わになった肌に口接けをし て…。


 そ・フ夢を見ると、いつも彼は大きく叫んで飛び起きた。胸は息苦しいほど鼓動をうち、背中には冷たい汗が流れ 落ち。頭は脈動のためガンガンと痛み。そして、夢は夢精をもたらした。
 汚れた敷布を見ると、彼は激しい自己嫌悪にかられた。


 何でこんな夢を見るのか!?族長は同性なのに!俺はどうかしている!そうだ、好きな女の子ができれば、こん な夢は見なくなるはず!
 呪いのようにまとわりつく悪夢を追い払うために、彼は里の少女達を追いかけまわすようになったのだが、どうにも上手くいかないのだった。


 ハルバラドは平らな岩の上に尻をつけ、膝を立てた足を両腕で抱えてその間に項垂れた頭をつけて縮こまっていたが 、その時背後から声がした。
「今日は、出迎えてくれないのか?」
 彼は飛び上がらんばかりに驚いたが、固まったまま振りむかなかった。振り向かなくてもわかる。この涼やかな 声は!
   若者が何も答えず項垂れていると、アラゴルンがその隣にそっと座った。夜のしじまに滝の音だけが響 く。
 ハルバラドは族長の次の言葉を待っていたのだが、いつまでたってもアラゴルンは何も話しかけてこなかった。彼はおずおずと族長の姿を窺った。するとアラゴルンはくつろいだ様子で、投げ出した長い足をゆった り組み、後ろ手で身体を支えてのんびりと月を眺めているのだった。
 その横顔には祝福された暁の最初の光があり、ハルバラドは知らず見惚れた。
 するとアラゴルンがこちらを見ずにハルバラドに話かけた。
「里の女の子達に、ちょっかいだしては嫌われているそうだな」
その言葉にハルバラドが慌てて横を向いて赤面すると、アラゴルンが可笑しそうに言葉を続けた。
「おまえも、そんな年頃になったか」
 そんなんじゃない!そんなんじゃないのに!とハルバラドは心の中で叫んだが、口に出して弁解のしようもなく 。アラゴルンは相変わらず月を見上げたまま言った。
「ハルバラド、旅をしないか?」
「…え?」
 思いがけない言葉にハルバラドが族長を見ると、アラゴルンが先を続けた。
「南へ行く。ここより、もっと暑くなるだろうが」
 思いがけない誘いにハルバラドがぼうっと我を忘れていると、アラゴルンがこちらを向いていたずらっぽく片目を瞑った。
「おまえも里を出て見聞を広げるのがいいだろう。いっしょに行くか?」
「行きます!行きます!勿論!!」
言ってしまってから、しまった!とハルバラドは悔いたのだが、心は正直だった。
「明日の夜明けに出立する。南に行くから軽装でいい。用意しておけ」
 それだけ言うとアラゴルンはこの場を離れていった。
 族長と旅?俺が?二人きりで旅をする?ハルバラドは事の成行きが信じられず、何度も心の中でアラゴルンの言葉を繰り返していたのだが、やがて決心した。うろたえる事はない、族長だってひとりの男だ。一緒にいれば、何か しら幻滅する事もあるに違いない。俺だって普通の男なんだから! 半ば言い訳じみているとは思っても、族長と旅をする。その誘惑にはどうしても打ち勝てなかった。


*****


 夜明けの里には朝霧が立ちこめ、夏でもひやりとした冷気が心地よかった。
「早や駆け出来る馬がいい。急ぐから」
 族長の言葉に、厩からとって置きの二頭が選ばれた。
 アラゴルンが選んだのは「姫君の馬」という意味を持つロヘリン。その名の通り裂け谷の姫から贈られた馬だ。彼の旅は徒歩が多いので、久々に主を乗せるロヘリンは、勇んで今にも駆け出しそうな様子。ハルバラドには気性の荒い黒馬。これを乗りこなせるはドゥネダインの中でも少ない。
「行くぞ!」
 ハルバラドが馬にまたがるのを待たずに、アラゴルンがロヘリンと共に駆けだした。ハルバラドも慌ててその後を追いかけたが、族長に追いつくのは至難の技だった。二人と二頭の馬は日の出から暮れまで兎に角走り続けた。そ して夜にはへとへとになって、木陰で野営するのであった。
 ハルバラドが期待していたのはこんな旅ではなかったのだが、馬での早や駆けは、彼が思っていたより爽快だった 。族長の背をひたすら馬で追う。風さやぐ中を、樹の葉に光の舞う中を駆け抜ける。夏の暑さも、彼の中のもろも ろの悩みも吹き飛ばし、旅の跡へと置いていく。


 幾つめの月を二人で見上げた時だったであろう。南の地の大気がむせるようにまとわりつき、夏のものうさを醸し出す夕べ、二人は大きな川辺の渡しに着いた。渡しには小さな小舟があり、杭に括りつけられていた。
 今日の野営は涼しい川辺を選んだのだろうかとハルバラドは思った時、アラゴルンが火打石で小舟の舳先のカンテ ラに火を灯すと、思いがけない事を云った。
「今夜は野営をしない。川を遡・驍ゥら着いてこい」
 訝しく思いながらもハルバラドがそのもやい綱を解き、二人は小船に乗り込んだ。族長のいう通り竿を射して川を 遡ろうとすると、アラゴルンがまた不思議な事を云った。
「私がやる。おまえは目を瞑っていろ」
 そう云われても好奇心が先立ち、大人しく目を瞑っていられそうにはない。そんなハルバラドを見抜いて族長が 笑った。
「どうやら無理みたいだな」
 彼は背に負っていた袋の紐を解くと、幅の広い一本を放り投げてハルバラドに目隠しをしろと云った。
「ど…、どうしてですか!?それじゃ、敵襲があった時俺戦力になりません!」
 抗議した若者にアラゴルンがまた笑った。
「まあ、いいからそうしていろ」
 不服ながらも、ハルバラドは族長に従った。
 見えずとも、夜は濃くなっている筈。こんな闇の中を、族長はどこ へ向かっているのだろう。耳には静かな波音と、それに掉さす水音が聞こえるだけ。濃密な夏の宵、二人は小舟に乗って川を遡る。
 しばらくどちらも無言で小舟に揺られていたが、ハルバラドに波音と違うかすかな音が聞こえてきた。囁くよう に秘かな音が。そして心を酔わせるような甘い香りも。耳を澄ませてその音の正体をつきとめようとした時、小舟が止まった。
「分かるか?ハルバラド」
 ハルバラドが無言のまま頷くと、アラゴルンが声をかけた。
「もう、その目隠しをとってもいいぞ」
 若者が自分で目隠しの結び目を解くと、しばらく夜目が利かず辺りは暗闇だった。だが次第に目が慣れていくと 、彼は息を飲んだ。アラゴルンが船の舳先に灯していたカンテラを高く掲げた。




 ハルバラドの頭上には宵闇の中、花が、花が咲き乱れていた。ひっそりと、闇の中に薄い衣を纏うように。そし て甘い芳香を放つその花は、花びらだけではなく、花序ごと川面に落ちるのであった。ひそやかに、微かに囁くよ うに、ぱたり、ぽとりと雫のように。
 頭上に花、川面を覆い尽くすように花。
「夏の夜にだけ咲き、一夜限りで散る花だ。南の、この季節のこの場所で」
 アラゴルンも囁くように告げた。花の落ちる音を遮るまいとするかのように。
「…これを見せるために?どうして俺を…」
 胸の震えを抑えるようにハルバラドも囁くと、アラゴルンが静かに告げた。
「誕生祝いだ。おめでとうハルバラド。17歳になったな」
ーーーーーーーーー俺の誕生日のために…!?


 アラゴルンは宵闇に灯る花のように微笑むと、言葉を続けた。
「おまえの生まれた朝の話をしよう。夜明けにおまえは生まれた。朝焼けの日にドゥネダインは、おまえという贈 り物を授かった。おまえは暁の空の上から羽に乗って、私達の下に来たのだ。あの朝を、私は忘れないだろう。もう、 里には滅多に生まれぬ子どもを授かったあの朝を。
ハルバラド、生まれてきてくれてありがとう」





花が降る、花が降る、花が降る。
水面にひそやかな水音をたて、花が降る。




俺は……!ああ、どうしよう…!
この人が好きだ。この人が好きだ。この人が好きだ!
どんなに誤魔化そうとしても
どんなに否定しようとしても
俺が好きなのは、この人だ!
どう思われてもいい!蔑まれてもいい!あなたが好きだ!好きなんだ!
桎梏の闇の中、ほのかなカンテラの灯に浮かぶその人が。
頭上にも周りにも花を纏い、俺を見つめるこの人が。


俺の心は打ち震え、何も言えなかった。
これほどの贈り物をくれたこの人に、その心にあたうる言葉などなく。

「ハルバラド、急いで大人になろうとするな。成長すれば強くなれると思うだろう。だが、大人になるというのは 、弱くあることだ。自分の弱さを認めるのが成長で、生きるというのは弱くある事だ」

 そう云うと、アラゴルンはふと笑った。
「おまえに云えた義理じゃないな。私もまだ、悪あがきをしているところだ」

 あなたが悪あがきをしているというのなら、俺はまだ生まれたての赤ん坊ですらない。それ伝える為に、ここに連れてきてくれたんだ。祝福の言葉と共に、荒んだ俺の胸の内を、諌めるのではなく、なだめるのではなく、寄り添おうとしてくれる為に。


 俺は天上の花と川面に浮かぶ花と、それに囲まれ微笑む人を見つめた。
 もう馬鹿な事はやめる。やる必要もない。俺の心は決まり、この人の望み通りの男になるだけだ。


 夜明けが近かったが俺は囁いた。


「…族長、日が昇るまでここにいてもいいですか?この花を見ていたいんです」
――――――――――あなたと。


 ひそやかな、夜の贈り物をくれたあなたと・B俺が一生想い続けるであるだろう、あなたと一緒に。


 アラゴルンはいつものように、静かに微笑んだ。













言い訳しておきますと、この花の存在を知ったのはかれこれ6年前ほどです。実際に沖縄まで出向き、船を借りて川を遡り、真夜中にこの花の写真を撮ったという方と仕事をする機会がありました。 その写真を見せていただいた時、この珍しい花をいつかハルアラで使いたいと思っていました。
ところが、さっさとSSにすれば良かったものを、某ドラマに先に使われてしましました。
という事は、私はそのドラマを見ている訳なんですが…。ちと恥ずかしいので武士の情けで触れないでおいてやって下さい。


ところで、作中のアラゴルンの言葉はこちらからの引用です。
「成長すれば強くなると子供は思うが、弱さを認めるのが成長で、生きるとは弱くあることだ。」
マデレイン・レングル