**父の涙

―――――エオメル少年は、あの後どうしただろう。
 アラゴルンがそう考えた瞬間だった。

「また、他の男の事を考えているんでしょう」
 焚き火の向こうから、ハルバラドが声を掛けてきた。物思いを遮られたアラゴルンは顔をあげ、火影の向こうの年若い部下の顔を見た。
 ローハンの少年と出逢ったその日、アラゴルンは迎えに来たハルバラドと共に、滅びたアルノールの首都旧フォルノスト付近にある北方野伏の隠れ里へと向かっていた。星空の下、野営地と決めた窪地で焚き火を囲み、二人はしばしくつろぎの時を過ごしていた。
「誰もいない場所だからいいようなものの、おまえの言い方は誤解を招くぞ」
 呆れ顔で返したアラゴルンに、ハルバラドはむっつりとしたふくれっ面を隠さずに言った。
「誤解も何も、いつだってあなたは他の誰かの事を考えている。夕星さまの事ならいざ知らず、俺といる時ぐらい、俺の事を考えて欲しいものです。滅多に」
ハルバラドは言葉を切ると、小さく付け加えた。
「滅多に、あなたと会える事はないのに」
 アラゴルンは北方ドゥネダインの長であるが、一族の事はハルバラドや長老達にまかせきりで、里へ帰ることは少ない。それは、信頼の証しでもあるのだが。
「おまえ達がいるから、私は安心して、国中を放浪できるんだよ」
「口先で丸め込もうとしても、俺はもう飴玉で騙されるような年じゃありませんよ」
 ハルバラドがふて腐れた様子で手にしていた木の枝で焚き火を盛大にかき混ぜると、小さくなっていた炎がぱちぱちと火勢を取り戻した。

「思い出していたんだ。まだ裂け谷にいた頃の事を」
 ハルバラドが顔を挙げた。族長の口から裂け谷時代の事を聞くのは初めてだった。
「今日会ったセオデン王の甥子より、もう少し幼かった頃だ。自分の出自も知らず、ただ自分と母だけはエルフではない。何か理由があって、ここに匿われているのだと何となく分かってきた頃の事」
アラゴルンは静かに語りだした。

 

 

 エルフ達は皆、優しかった。特にエルラダンとエルロヒア、二人の兄上達は私を猫かわいがりしてくれてたし、エルロンド卿も実の父のようだった。とはいえ、父親がどういうものなのか、私は知らなかったがね。

 それでも、長じるにつれ、違和感を感じ始めていた。それは、母に付きまとう哀しみの衣が自分の故に思えてならなかったから。

 母上も、お優しかった。でも、時々その優しさは上の空のようだと感じる事があった。自分の子に対するのではなく、まるで預かり物を恭しく扱っているように。
 裂け谷に、私の他子どもはいなく、他の母と子の情愛がどのようなものか知る良しもなかったが、そういう事は何となく分かるものだ。子どもは親の愛情に敏感だからね。

 独りでおられる時、母はよく谷の遥か彼方の空を眺めておいでだった。その横顔があまりに寂しげで、声を掛けられなかった。それでも母は私に気が付くと振り返り、笑顔を作って私の名をお呼びになった。最初他の名を口の端に上らせようとして、それを自戒するかのようにように、いっそうやさしい声音で、
「―――――エステル…」と。

 エステルはエルフ語で<希望>を意味する。それなのに、何故かその名は母にとっては希望ではなく、呪いのようなものなのではと、名を呼ばれる度にその声音の奥底に潜む悲しみの影を感じていた。
 母上は、ここではなく、本当は外の世界でお暮らしになりたいのに、私の為にエルフ族の中で暮らしていらっしゃるのではないかと。エステルという名も、夢のように美しい裂け谷の暮らしも、幻がそのまま立ち歩いているがごときエルフ族の姿も、母にとっては課された試練のように思えてならなかった。
 そして何より私自身の存在が、母に苦痛をもたらしているのではないかと、私はそんな風に思ってしまったんだ。

「でも、それは…!」
 ハルバラドが思わず大声を出すと、アラゴルンは手近にあった木切れを取り、燠になりかけていた焚き火をかき混ぜた。
「まあ、最後までお聞き。いや…、聞いてくれるか?」


 私は随分悩んだ。子どもだったし、周りは年を経たエルフ達しかいなかったし、それに恐ろしかった。本当に自分が母の苦痛の元だとしたら、いったいどうすればいいのかと。
 色々な事を考えた。自分の出自と父アラソルンの死は、何か関係があるのだろうかとか、そもそもどうして自分達親子は、人間達から離れてひっそりとこの谷に身を隠しているのかと。もしかしたら、自分は何かとても恐ろしいもので、母と共に、ここに隔離されているのではないだろうかとか。そう思うと、自分の存在そのものが、空虚に感じられた。


「こうして話すといかにも馬鹿馬鹿しく聞こえるだろうが、あの頃は本気で悩んでいたんだ。」
 自嘲するように冗談めかしたアラゴルンに、ハルバラドは必死に首を横に振った。

 
 それで、私は少し自暴自棄になってしまってね。あの頃は、随分馬鹿をやらかしたものだ。とはいえ、谷でやらかす馬鹿には限界があったので、私の鬱屈した思いの矛先は、結局自分へと向かった。まあ、単純に母の哀しみの元凶である自分が滅びればいいと思ったんだ。

 兄上達のオーク狩りに付いて行く度に、先陣を切って無謀に飛び込んでは後でこっぴどく叱られた。私が自棄になっているのに気付いたエルロンド卿は、一時期谷から出る事の一切を禁じたほどだ。
 
 何もかも憎かった。自分を殺せないオーク達も、谷もエルフも、目の前に立ちはだかるエルロンド卿も、そして何より自分自身が。

「思えば、あれが反抗期というものだったのだろうけど。私が自分を愚かだと悟るには、随分時間がかかった」

 ある日だ。何がきっかけだったか忘れたが、エルロンド卿に何もかもぶちまけたんだ。卿は私ごときの思いなどずっと前からお見通しだったのに、私が自ら話すのを辛抱強く待っていてくださったんだ。
 己を責め立てる言葉を並べる私に、卿はこう言われた。
「何もかも己の罪と思うは不遜、運命に謙虚であれ」と。
 それは突き放すように冷たく厳しい口調だったのに、その後エルロンド卿は私をきつく抱きしめ、更に言ってくださった。
「決して、おまえの故ではない」と。

――――――――後にも先にも、あの方がお泣きになるのを見たのはあの時だけだ。

「それで私は、どれほど自分が愛されていたのか思い知ったんだよ」
 夜の全てが、この人の話に聞き耳を立て、ひそやかに静まりかえっているようにハルバラドは感じていた。
「族長…」
 何かを言おうとして、ハルバラドは何も言葉が出てこない事に気が付いた。こみ上げた想いは、言葉にできるようなものではなかった。
「話が逸れたな。私は、あの時初めてエルロンド卿を実の父のように思ったんだ。今日会った少年にも、セオデン殿かセオドレド殿か、どちらかが私の時と同じように、言ってくださる筈だ。あの心豊かなお方達なれば、必ずや」

「これで私の話は終わりだ。今度はおまえの話を聞こう。そろそろ浮いた話を聞いても良さそうな年なのに、一向にそういう話を聞かないのはどういう訳だ?」
「からかうつもりならごめんですよ!明日は夜明け前にここを出るんですから、もう寝なきゃ!」
 そういうなり、マントにくるまり背を向けてしまったハルバラドに微笑みを向けると、アラゴルンも焚き火の火を小さくして自らも横になった。

―――――私はドゥネダインに希望を与えた。私は、私自身の為には希望を残しておかなかった―――――。

 アラゴルンの母、ギルラインの残したリンノドをハルバラドは思い出していた。
 
 自分の子に対するのではなく、まるで預かり物を恭しく扱っているように感じたと族長は言われた。ギルライン様にとって、このお方はご自分のお子というよりも、世界に捧げた供物だったのであろうか…。もしかしたら、勤めてご自分を戒めておられたのかもしれない。わが子が、苦難の道を歩く事を進んで望む母がこの世にあろうか。
 ギルライン様のお母上、イヴォルウェン様もギルライン様とアラソルン様の結びつきから、ドゥネダインの希望が生まれる事を予見なさっていたという。

 それほどの重い定めを背負った方なのに、俺の子どもっぽい不満に応えて大切な思い出を明かしてくださった。この方が、これほど細やかな気配りをなさる方でなければ良かったのに。少しは、ご自分のことを考えてくださればいいのに。

 ―――――俺は、矛盾した事を考えているな。

 隣で寝入っているアラゴルンを起こさぬよう、息を潜めて寝返りをうち、自分のとって何よりも大切な方であるその人の顔を覗き込むと、ハルバラドは願わずにはいられなかった。

 どうか、一切の物が全て幸せでありますように。この人が望まれる通り。あのローハンの少年も、ローハンの行く末も、中つ国も、何もかも幸せでありますように。
 願わくば、ただ、この時限りだけでも、この人の安らかな眠りを妨げるものは、何もありませんように。

 アラゴルンの形のいい鼻梁をくっきりと浮かび上がらせている星を見上げてハルバラドは祈った。

―――――虚空を行くエアレンディルの星よ、空にありては貴方の末裔であるこの方を守りたまえ。地上では、俺が守り給いますれば。今、ひと時なれと。

 

<了>



原作では王様になる気満々のアラゴルン。でも映画のアラゴルンは違いました。映画版のアラゴルンは、どんな子ども時代を送ったのかを、少しずつ形にしていきたいと思っています。

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