静かな朝

 


   「族…!」
勇んで話しかけようとした若者を、アラゴルンがさえぎった。微かに頭を振って。
「あっ、すみません!その、部屋はないそうです…」
慌てて声を潜めた若者は、アラゴルンに耳打ちした。
「だろうな。急な雨だし、この寒さでは」


夕刻あたりだった。冬でも温暖なその地方には珍しく、凍える風が吹き荒れていた。
旅籠も備えたその大きな酒場は、突然降り始めた冷たい雨を避ける人々でごったがえしていた。その中に、黒いマントをすっぽり被った、目立たぬ身なりの二人連れがいた。
「冬とはいえ、この辺りがこれほど冷えるとは珍しいですね」
話しかけたのは若者のほうで、名をハルバラドという。
「そうだな。雨が降っても野営するつもりだったが、装備が軽すぎた」
応えたのはハルバラドの一族の族長であるアラゴルン。彼らはドゥネダインと言われる一族だが、素性を隠していた。
 酒場は彼ら同様、道中に雨と寒気を逃れて飛び込んだものの、宿を取り損ねた者たちであふれかえっている。
「今夜はここで雑魚寝ですかね」ため息まじりにハルバラドが問うと、「屋根があるだけでありがたいと思おう」と鷹揚にアラゴルンが答えた。だが彼は、同族の若者が不満げな顔をしたのに気が付いた。
「どうした?不服か?」
自分の放浪の旅は、いつもごく質素なものだと心得ているはずなのにとアラゴルンは不思議に思ったが、若者はその疑問に答えず短く言った。
「別に。俺、エールを貰ってきます」
ハルバラドは、裂け谷からの伝令を携え、放浪中の族長に合流したところであった。何のことはない。アラゴルンを慕う彼としては、こんな大勢の中で息を潜めるようにではなく、久しぶりに星でも眺めながら二人きりで過せるものと思っていたのだ。
それなのに、この不意打ちの冷たい雨。いっそ雪なら、北国育ちの我らには雪中の野営の方法がいくらでもあるのに。

 冬でも暖かいこの地方で、こんな雨に邪魔されるとは。

行列に並んでエールを待っている間、大きく溜息をつくと、ハルバラドは自分の気持ちを切り替えようとした。

まあ、いいか。野営では見張りが必要だから、こんな風に飲む事は出来なかっただろうし。

ここにいる者達は、ひとまず難を逃れた者同士の連帯感なのか、ひしめきあいながらも和やかなムードで居心地は悪くない。店主は不意に大入り満員になった店内で、てんてこ舞いしながらも、エールを注いだり炉に薪をくべたり、ほくほく顔できびきびと立ち働いている。
 その時だった。ハルバラドの後方で怒声があがった。
「おい!すっこんでろ!この火の前は俺の場所だ!来るんじゃねぇ!」
振り向くと、如何にも柄の悪そうな大男が炉の前に仁王立ちになっていた。見ると、やはり宿を取りはぐれたのであろう。ずぶ濡れで、寒さに震えて唇を紫にした子ども達が、おびえたようにすくんでいる。その親達らしき者が慌てて頭を下げ、子ども達を炉の前から遠ざけようとしていた。

あの野郎!

ハルバラドがカッとしてそちらに足を踏み出した時だった。
「そういうのは感心しないな」
涼やかな声が、子連れの家族たちをかばうように割って入った。
「なんだと!?てめぇ何様だ!」
「何様でもない。あんたと同じく雨に降られた旅人だ」
荒くれ男が声の主の襟元を掴み上げると、黒いマントのフードがはらりと落ちて緩やかな癖を持つ黒髪と、灰色がかった青い瞳を持つ端正な顔が現れた。
「旅人だぁ?どうりで見ない顔だ。この優男!俺はこの土地のもんだ、よそ者は引っ込んでろ!」
ハルバラドは加勢するべきか迷ったが、体躯は痩身の族長の倍くらいありそうな相手だが、腕っぷしは族長の方が絶対上だ。それに、こういう時の対処は俺より族長の方が慣れている。
 ハルバラドの予想通り、相手が繰り出した拳を軽々避けると、アラゴルンはその腕を逆に捩じりあげて封じた。
「いてっ!あ痛たたた!離せ!離せよこの野郎!」
「そんな大きな身体だ。少しくらい寒くても大丈夫だろう。暖かい場所は子どもや震えている人に譲ろうじゃないか」
目を見開いて怯えている子どもたちを怖がらせないように、アラゴルンは朗らかに諭した。だが、その手は大男の腕をがっしり掴んだままだ。
「離せっ!離せってば!痛てぇよ!」
「なに、ただでというワケじゃない。あんたには俺からおごらせてくれ。身体を温める為に一杯やろうじゃないか」
「わかった!わかったから離せっ!こんちくしょう!」
半ば引きずられるようにではあったが、男はしかたなくアラゴルンに従うと部屋の隅のテーブルを挟んだ椅子に腰を下ろした。
 炉火の前で、子ども連れの家族がアラゴルンに向かって何度も頭を下げていたが、彼は軽く微笑んだだけだった。
「全く、優男と思って油断した!見かけによらない馬鹿力だ!ほんとに奢ってくれるんだろうなっ!?」
引っ込みのつかない大男がぶつぶつ文句をいうと、アラゴルンがハルバラドに目配せした。
 ハルバラドはというと、族長と自分の為に並んで手に入れたエールを、がしゃんがしゃんと蓋つきの大ジョッキからはね散るほど乱暴に小卓に置くと、相手の正面に座ろうとした族長を押しのけて自分がそこに陣取った。
「ハルバラド?」
不思議そうに訊ねた族長に、彼は不機嫌に言った。
「ここは俺が相手しますから。あなたは行ってください」
「行くってどこへ?」
憮然として腕を組み、正面の大男を睨み付けたままハルバラドが答えないでいると、アラゴルンの後ろから皆が口ぐちに声を掛けてきた。
「よう、兄さん、あんたには俺からおごらせてくれ」
「俺もこの先の土地の者だがここを悪く思わないでくれ。ここいらの者は多少気が荒いが、根は陽気で人がいいんだ。俺にも奢らせてくれ」
「そうそう、こんな時は助けあわなきゃ。炉端は子どもや弱い者達に。俺たち男は酒を酌み交わして暖をとろう。あんたのいう通りだ」
 それを合図に、商人とおぼしき一団が手際よく場所を差配し始め、皆快くその指示に従った。
 アラゴルンが感心したように眺めていると、酒場中の男達がエールを手に手に寄ってきて、彼をさらっていってしまった。アラゴルンを囲んで、幾度も乾杯が交わされ、いつの間にか楽器を奏でる者や歌いだす者まで現れ、酒宴は拍手と歓声で膨れ上がっていった。しまいには、店主がエールをひと樽気前よく振る舞うといいだすありさま。

 賑わう酒場の隅で、事の発端だった大男がエールをちびちび飲みながら、正面で自分を睨み付けたまま微動だにしないハルバラドに恐る恐る声を掛けた。
「その…、そう睨まれちゃ幾らただ酒でも不味くなるんだが…」
「うるさい!黙って飲め!」
 ハルバラドは全くもって事の成り行きが面白くなかったのだ。族長のやった事は正しいとはいえ。
こいつさえ面倒を起こさなきゃ、今頃族長と差しで飲んでいたのに!族長も族長だ!俺には目立つなと言っておきながら自分が一番目立っているじゃないか!あー、もうムカつく!それもこれも、こいつが、こいつが、こいつが…!
ああ、もうこの雨!雨さえ降らなきゃ今頃族長と二人きりだったのに!雨なんか大っ嫌いだ!



酒場の賑わいは夜更けまで続いたが、ひとり、またひとりと、床の上にそれぞれマントにくるまり眠りについた。ハルバラドも、目の前の男が沈没したのを見計らうと、まだ酒宴の輪の真ん中にいる族長を確認してから横たわった。

喧噪の中でハルバラドは独りだった。

あの人は、いつでもみんなのモノなのだ。いつだって、どこにいても…、周りの人々を引きつけて、あの人がいる事で場を変えてしまう。こんな故郷から遠く離れた南の地でさえ。決して一人占めできる人ではない。そんな事は分かっていたのに…。
でも、族長、俺、寂しいです。こんなに近くにいるのに、あなたが遠い。あなたの同胞は、ここでは俺だけなのに…。
人を魅了する族長を誇るべきなのに、さすがに子供じみた感傷だと嫌になってしまった。彼はそれを振り払うように、南育ちの陽気な人々と酌み交わしているアラゴルンに背を向け、目を瞑った。


*****


静寂を聞いたことがあるだろうか。ハルバラドが聞いたのは静寂なのだが。
彼は静けさで目を覚ました。目を開けると、薄昏く、しかし青いベールのようなぼんやりとした明かりが酒場を満たしていた。
耳がしんとする。
――――あ、これは。
ハルバラドにはすぐに分かった。何が起きたのか。なじみの感覚だったから。
耳を澄ますと、ハルバラドは確信を得た。すると、耳元で囁く声がした。
「おまえも気が付いたか?ハルバラド」
いつの間にか、アラゴルンがハルバラドのすぐそばで休んでいたのだ。
周りで寝入っている者達を起こさないように、小声でハルバラドも応じた。
「ええ、気が付きました」
その時、ある可能性に気が付いてハルバラドの胸がはずんだ。
「もしかして、気が付いているのは俺たちだけでしょうか?」
「そうだな、この南の地では滅多に起きないことだから。確かに珍しい」
「ですよね。あなたでも初めてですか?」
「そうだなぁ、この辺りをこの季節に何度か通った事があるが、初めてかもしれない」
「そうか、俺、すごい時に来たかもしれませんね」
「おまえが北から運んできたんじゃないのか?」
「まさか!」
ハルバラドの小さな叫びが聞こえたのか、すぐ横でいびきをかいていた男がううんと呻いて寝返りを打ったので、二人は更に声を潜めた。
「おまえ、子どもみたいな顔をしてるぞ」
「嬉しいんです」
あなたと同じ感覚を共にできて、と彼は心の中で付け加えた。
「それと、いつも少し神聖な気持ちにもなります」
「そうだな」
そうだ。今ここにいる人々の中で、多分俺たちだけが分かる。外で何が起きているか。北国生まれの俺たちだから。俺と族長の二人だけが分かる。
「積もっていますね」
「ああ、かなり積もっているな。音が静かだ。何もかも雪が吸い取ってしまうから」
「この土地で、雨が雪に変わるなんて思いもしませんでした」
「初雪だな」
「南の地に、初雪が降りましたね」
見なくても分かる。子供のころから、幾度も経験した初雪の朝だ。降り積もった雪が、世界の音を全て吸い取ってしまったかのようなこの静寂。鎧戸の隙間から滲む、ほのかな雪明り。



初雪の朝は、いつも神聖な気持ちになる。そんな朝をこの人といっしょに迎えたのだ。
ハルバラドは、間近にある薄青い瞳に見入った。

――――――この人はみんなのものだけど、俺は確かに故郷を同じくする同胞なのだ。それは変わらない。どこにいようと。
この人がいる限り、いつだって俺はこんな風に思いがけない贈り物をもらうのだ。

喜びに胸が弾けるような、こんな朝を。
慕わしいこの人と、初雪の朝を分かち合うこの瞬間を。
心の奥深く、大切なものを守っている場所に刻もう、この朝を。
子どもの持つ宝のように特別な、初雪の朝。

北国生まれ、万歳。






冬のハルアラであり、朝のハルアラ(笑)でもある話、いかがでしたでしょうか?
北国育ちならではのあるある話です。今は建物の建材が強固になってしまったので、雪国でも体感するのは難しくなっている気もしますが、私が子供のころはまだ壁が薄かったせいか、すぐ分かりました。初雪が降った朝は本当に見なくても分かるんです。あまりにも静かで、仄明るいから。人間の五感はすごいです。