ローハンの初代王、青年王エオルは、東ローハンの谷地のアルドブルグに館を構えていた。
  エオルの息子、ブレゴがエドラスに壮麗な黄金館を建てて移り住むと、この館はブレゴの三男に譲られ、その家系のエオムンドまで受け継がれた。
 エオムンドはセオデン王の末の妹姫、セオドウィンを娶り、その間に生まれたのが、エオメルとエオウィンであった。




**花咲く梨の木の下で。

 もうすぐ、あの木が満開となる頃の筈だった。
 昔、自分達家族が住んでいた東ローハンの谷地の外れに、その梨の古木はあった。 
 ごつごつと節くれだった幹は、大の大人二人が腕を回してやっと届く堂々たる巨木で、地に垂れるほど長く伸びる枝に、春、瑞々しい若葉と共に真っ白な花を頂く様は、真に見事であった。

花の満開の頃を見計らって妹を連れてきてやろうと、少年は決心していた。見頃は、およそ翌週辺りと踏んでいたのに、ここ数日例年にない暖かい陽気が続き、少年は気が揉める日々を過ごしていた。

 早咲きされて、見頃を逃すわけにはいかない。  
 だが、尊い立場にある方の従者として仕える少年は、そう簡単にその方のお傍を離れる訳にはいかなかった。申し出れば暇をくださると分かってはいたが、どこに行くのかと尋ねられたらと思うと、少年はどうしても言い出せなかった。
この梨の木の事は、妹以外には話したくなかったのだ。ことに・A自分達兄妹に、格別の情をかけてくださる方々にだけは決して。

 思い余った少年は、ある早朝、小鳥達もまだ目を覚まさぬ夜明け前、誰にも告げず、エドラスの黄金館から一気に馬を走らせて来たのだった。
 ほんのちょっとだけ、木の様子を見るだけだ。朝の、御仕度の時間に間に合うように帰れば大丈夫だと。
 
 谷地の底にある、低い丘陵の向こうに、少しずつ薄明るくなってきた中にぼんやりと梨の木が見えて来た時、少年は胸を撫で下ろした。
やはり、いつもより早く咲いている。五分咲きといったところか。確かめに来て良かった。ニ、三日の間に、妹を連れてこなければ。あやうく見頃を逃すところだった。

 梨の大樹の脇で馬を降りると、少年は咲き初めた白い花と新緑の若葉を頂く堂々たる梨の木を見上げた。梨の木の向こうの空が淡く朝焼けに染まり始めている。かつてこの満開の花を、父と母いっしょに見上げたの思い出が過ぎりると、胸が迫った。

  少年は低く垂れ下がる枝をくぐり、根元近くに腰を下ろした。
 彼は感傷を振り払うように、被っていた兜を無造作に脱ぐと、汗に湿ったロヒアリム特有の長い金色の髪を指でかき上げた。その時だった。

「梨の木の下で、冠を直してはいけないのですよ」
 突然声を掛けられ、少年は驚きのあまり横に跳びのいた。咄嗟に腰に帯びた剣に手をかけ、声のした方を振り向くと、そこには見たこともない風体の男が、梨の大樹の下でのんびり長い足を組んで、腕を枕に寝そべっていた。

「驚かせてしまいましたかな?それは申し訳ない。何、ただの旅人、別段怪しい者では…」といいかけて、男は自分の汚れ放題の黒っぽい衣服を見下ろした。
「といっても、この格好じゃ信じて貰えぬでしょうが。夕べ、ローハンの東の境を越えた時、ふとこの梨の木の事を思い出したのです。丁度花の咲く頃だと。それなら花の下で夜を明かすのも一興と、まあ、そんな訳だったのですが」
 剣の束に手をかけたまま、かっきりした意志の強そうな眉をしかめて自分を見つめる少年に向かい、男は軽く礼をした。
「どうやらお邪魔のようだ。退散するといたしましょう」
男が大きく伸びをして立ち上がろうとすると、少年は慌てて声を掛けた。

「またれよ!」
 いきなり驚かされた事には少なからず腹を立てたし、この梨の木は自分の、ここを領地としていた自分達家族の物という思いから、その木の下に他の者がいるのを見た瞬間、縄張りを荒らされたようで不愉快だったのは確かだ。
 だが、そんな自分の狭量さを、少年は少し恥ずかしく思ったのだ。夜露を凌ぐ宿さえ持たぬ旅の者を追い払うような真似は、亡き父も、自分を引き取ってくださった伯父上も、決してなさらぬに違いない。
 それに、男の言葉が少なからず少年の興味を引いた。

「あなたは、以前からこの梨の木を知っていたと言われるのか?見たところ」
 少年は、ロヒアリムには滅多にない男の漆黒の髪に目を止めると、言葉を続けた。
「ローハンの生まれでは無いようなのに。南のゴンドールの国は古のヌメノーリアンの血のせいで、黒髪が多いと聞く。もしや、ゴンドールの方か?」
「白い都は、我が故郷ではありませぬ。私は国を持たぬ、流浪の身」
「ならば、いったいいつこの梨の木を見たんです?」
「随分、昔のことです。私は若い頃、少しばかりローハンに暮らしたことがありました。その折、たまたまこの木を見たもので、懐かしさにこちらに足が向きました」
 静かに話す男の顔は、不思議な表情だった。若い頃と言うその顔は、今だとて充分若く見えたが、確かにその目には若者が持ちえぬ深い色があった。旅に旅を重ねると、いつしかこんな顔になるのだろうか。
「私はこの花の咲く様子も好きでしたが、この実も好きでした。香りも色も独特で、これがいったい何の梨の木なのか分かる者は誰もいなかった。どうやら歳を経ていくごとに、風に運ばれた様々な花粉と自然に交配して独特の実をつけるようになったらしく」
 男が爛漫の花を見上げる表情の中には、嘘偽りのない、懐かしさがあった。

 男の穏やかな声音と、梨の木を介しての縁が、いつしか少年の気持ちを緩やかなものにしていた。何故か、この人は決して怪しい者ではないという信頼が、少年の中に生まれていた。

 少年は剣の束に掛けていた手を外すと、自分も足をくつろげて座り直し、男に尋ねた。
「そういえば、先ほど不思議な事を言われましたね。冠?冠を直してはならぬとか。いったい何のことです。ご覧の通り、僕は冠なんか被っていませんよ・v
 少年の怪訝な問いに、男はやわらかく笑った。
 微笑んだ途端、厳しさに晒された漂泊の魂を伺わせる表情が、包み込むような柔らかさに変わり、少年ははっとした。
「冠というのは比喩です。梨の木は枝が低いので、頭上で冠を直す仕草をすると…」
 そこまで言いかけて、男はふと言葉を止めた。男の瞳が少年の頭上に注がれ、何か目に見えぬ物を見ているようであった。
「?どうかされましたか…?」
 少年の呼びかけに、夢から醒めたように我を取り戻すと、男はふと真剣な眼差しで問うた。
「…貴殿は、セオデン王のご子息、セオドレド王子であらせられるか」
 少年は一瞬目を丸くすると、次に破顔して、大きくにっこり微笑んだ。
「まさか!僕は、ローハンの世継ぎなんかじゃありません。僕は、セオドレド王子の従者です」
 少年は立ち上がると、胸を張った。
「今は一介の従者ですが、いずれ騎士になるんです。セオデン王の名だたる武将がた、ギャムリング殿やエルフヘルム殿、エルケンブランド殿のように、いつか王となられるセオドレド王子の軍馬騎士団、エオレドの一つをお任せいただくのが、僕の夢なんです。僕の名は…!」
 少年が誇らしげに自分の名を名乗ろうとすると、男がそっとそれを留めた。
「申し訳ありません。私の方から尋ねておきながら。でも忠告をさせてください。見も知らぬ素性も分からぬ者へ、むやみにご身分を明かしてはいけません」
「でも、あなたは確かに不思議な人だけど、危険とは思えないな」
 少年が不服そうに言うと、男が静かに立ち上がった。

 

「危険なたくらみを持っている者ほど、見かけは穏やかに装うもの」
 立ち上がると、少年は相手がかなり長身であることに気が付いた。男は武器にも手を掛けず、ただ立ち上がっただけなのに、その雰囲気が一瞬で殺気を帯びたものに豹変した。
 少年は瞬時に悟った。
 しまった!この人はただの旅人ではない、歴戦の戦士だ。ローハンの名だたる騎士達にセオドレド殿下といっしょに剣の指南を受けさせていただいているが、これほどの手ダレはローハン家中にはいない。
 自分は、ローハン家中きっての剛の者グリムボルド殿にでさえ、時々は勝つことがある。だが、この目の前の男に、自分は果たして勝てるのだろうか。
 否、戦いに迷いは禁物とは、畏れ多くもセオデン伯父上のお言葉。戦う時は、死力を尽くすのみ。
少年が、覚悟を決めて腰に帯びた刀(タチ)に手をかけ、黒ずくめの男をはっしと睨めつけた時であった。

「良い目をなさる」
 再び、まるで魔法のように目の前の男から殺気が消え、先ほどまでの静かな声で話す、穏やかな男に戻った。少年は、剣の束から手を離すと、気持ちを落ち着けようとしたが、手が小刻みに震え、足からは力が抜けてがくりと地面に膝をついてしまった。
 男は穏やかな所作で少年を抱きとめると、声を掛けた。
「ゆっくり、呼吸をなさい。私の心臓の音が聞こえますか?」
 男の胸にすっぽりと抱かれると、丁度、相手の心臓の辺りに自分の耳があった。少年はようやく首を縦に振って、聞こえるという意思表示をすると、男が安堵した声で更に告げた。
「私の心臓の音に合わせて、呼吸をなさい。ゆっくり、そう、その調子です」
 自分の鼓動は緊張から早鐘を打っているというのに、男の心臓は先ほど殺気を発した者とは思えぬほど、穏やかにリズムを刻んでいた。そのリズムに合わせて呼吸を整えている内に緊張が解け、自分の四肢がゆるやかに弛緩していくのを、少年は感じた。
 

 少年の極度の緊張が収まったのを見計らうと、男は、少年をそっと梨の木に寄りかからせ、躯を離した。
 「セオドレド殿は、既に良き臣下に恵まれておられるようだ。あなたのような勇敢な臣を持ちえるとは、ローハンの未来は頼もしい限り」
 男の口から出たのは、どうやら褒め言葉のようであったが、その言葉を聞くと、少年は顔に血を上らせて憤った。
「慰めなんか!僕は、あなたの前で腰を抜かした腑抜け者だ!見たでしょう!あなたは、剣にさえ触れなかったというのに!!」
「私に気迫負けしたのが、それほど悔しいですか?」
「あたりまえだ!僕は、これでも、太刀筋はなかなかだと自分で思っていたんです!今はまだ体格も経験も足りないけど、早晩、ローハン一の剣士として名を馳せるのは、間も無くだと!だって、僕はローハン随一の剣士になりたい!ならなければいけないんだ!」
 叫んでいる内に、少年の気持ちは昂ぶっていき、この得体の分からぬ男へ、何もかもぶちまけたい衝動に駆られていた。今まで、従兄弟にも、敬愛する伯父、・Zオデン陛下にも言えずにいたことまでも。
「強くならなければ、何も守れない!父上も、母上も、僕はお守りできなかった…!強くなりたい…!なりたい!今すぐに!強くならなければ、何も守れない!このローハンも、セオデン陛下も、セオドレド王子も!そして、よるべない、たった一人の愛する妹さえ…!!」

 オーク征伐に出掛けた父エオムンドが急襲に遭い非業の死を遂げた時、少年は11歳だった。配下の騎士の馬に乗せられて、無残な姿であの頑強な父がアルドブルクの館へ無言の帰還をした時、少年に芽生えたのは悲しみよりも自責の念だった。オークへの怒りを凌ぐほど、無力な子どもである自分への怒りが、情けなさが、あの時から少年に獲り憑いていた。
「もし、あの時、自分もお連れくださいと父に懇願していれば、もしかしたら、父上をお守りできたかもしれないんだ。あの時、御一人でいってはなりませぬ!と、せめて配下をお待ち下さい!と父上をお止めしていれば、あんな事にならなかった筈なんだ!」
 初陣は、先年10歳の時に果たしていた。ローハンに恨みを抱く褐色人との、小さな小競り合いではあったが。あの時、母はまだ初陣には幼すぎると反対したのに、父は、この子は大丈夫だと、いっしょにお連れくださった。
 なのに、あの日に限っては、お連れくださらなかったのだ。元々、父はオークと聞けば、憎しみが先立ち、配下も連れずに飛び出していかれる方ではあったが、あの時、自分は申し出たのだ、お連れ下さい!と。だが父は、そなたは家にいて、母と妹を守れとだけ言い残して行ってしまわれたのだった。
 何故あの時、しがみ付いてでも懇願しなかったのだろう。
 母を守れと、父は言われた。
 だが、父上を失った母上は、望みを失い、病を得て急逝してしまわれた。
 母上をお守りしたくば、父上、あなたを死なせぬことこそが真の孝行であったものを、自分は子どもで、無力で、なす術もなく、漫然と父と母の死を見送るしかなかった。
「悔しい!悔しい!悔しい!強くなりたい!誰よりも!何にも負けぬほど!愛する者を守れるように…!」
 最後の言葉を叫ぶと、少年は黒ずくめの男の膝にすがり付いてわっと号泣した。

 人前で、これほど泣いたのは生まれて初めてだった。父が亡くなった時は、打ちのめされて、涙も出ぬ程だった。続いて・黷も失った時は、幼い妹を怯えさせてはならぬとその一心で、誰にも涙を見せず、少しだけ人知れず泣いた。
その後も我慢していたつもりはなかった。最愛の妹セオドウィンの遺児二人をメドゥセルドに引き取ったセオデン王も、その世継ぎ、年の離れた従兄弟セオドレド王子も、掛け値無しの愛情を注いでくださる。身に余る光栄と思いこそすれ、不満などある筈もなく。
 だからこそ、自分は幸せな子どもでなければならないと思っていた。伯父の、従兄弟の恩情に報いる為に。
 ああ、自分はいったい何だってこんな見ず知らずの男に、一切合財話してしまっているのだろう。

 男は暫く少年の泣くままにしていた。感情を爆発させた少年が、次第に落ち着きを取り戻し、身を越して涙を拭うまで、男は梨の木の一枝になったかのごとくじっとしていた。
「人は身近な者を失うと、何故か自分を責めるものなのです。あの時、自分がああしていればと、夜毎に悲しみを掘り返しては、埋め、また掘り返す」
 男が、ぽつりといった。
「私の父も、オークに殺されました」
 見知らぬ者へ思いがけず心情を吐露してしまった少年は、涙も収まると少々決まり悪さを感じていたのだが、男の告白に思わず俯けていた顔を上げた。
「その時私は、わずか二歳。父の面影すら記憶に無い程幼かったので、あなたのような、激しい自責の念に駆られた訳ではないのですが」
 少年は男の話に聞き入った。
「母は気丈な人で、めったに感情を表さない人でした。父が存命な頃は、よく笑う、快活な乙女だったと人づてに聞いたことがありましたが。そんな母が、夕暮れの頃、父の思い出に耽っているような時、何故か、自分がいなければ父は今もまだ生きて、母を笑わせていたのではと、埒の明かぬことをよく思ったものです」
「あなたは、どうやって、その思いから逃れたのですか?」
「それは…」
 男は何か言いかけたが、ふと口をつぐんだ。彼は、どうすれば少年の心を軽くしてやれるかを知っていたが、その役目は自分であってはならぬと思ったのだ。
「あなたの傍には、あなたに愛情を掛けてくださる方々がおありのようだ。その方達に、今私に話してくださった胸の内を、正直に伝えてごらんなさい」
 男の助言に、少年は大きく被りを振った。
「まさか!そんなことは出来ません。伯父上は・Aそれは深い愛情を注いでくださるんです。従兄弟もです。あのお二人を悲しませたくない!これほど慈しんでいただいているというのに、僕が未だに昔に未練を抱いているだなんて!この花咲く梨の木を、父と母と妹と、家族4人で見上げたあの頃を、取り戻せるなら魂を売ってもいいとさえ連綿と思っている、この恩義をわきまえぬ不忠を、どうしてあの方達に言えるものか!」
「あなたは、伯父上殿とお従兄弟の度量を安く見積もっておられますぞ。」
「えっ?」
「それほど情の深い方達ならば、あなたの正直なお気持ちこそをお知りになりたい筈。あなたが他人行儀に無理を装うほど、まだ愛し方が足りぬのかと、むしろ寂しく感じておいでと、私は思います」
 その言葉は、少年を驚かせた。今まで、一度もそんな風に考えた事はなかったのだ。
 僕が、伯父上や、従兄弟に寂しい思いを抱かせているなんて、そんな事があるものだろうか。

 少年が黙り込んでしまうと、男がのんびりと立ち上がった。

 「少々、長居をしてしまいました。そろそろ、出立せねば。賢者はめったに忠告をせぬものと申しますが、どうやら私は賢者には程遠いとみえ、余計な事を言ったかもしれません。」
 男は、少年の目を見据えた。
「その真っ直ぐな明るい目で、しっかりと人を、物事を、世の行く末を御覧なさい。自ずと、道は開けるものです。あなたなら、お出来になります。では」
 去ろうとした男に、少年は呼びかけた。

「お待ち下さい!名前を!あなたの名を、どうか教えてください!」
 振り返ると、男は微笑んだ。
「名乗るほどの名は、持ち合わせておりませぬ。しばし、ローハンの勇猛な騎士殿と語らえて、未来への希望を持ち申した。名乗らず立ち去るご無礼をお許しください」
 今一度、浅く礼をして広い歩幅で再び立ち去ろうとした男の背に向かい、少年はすっくと立ち上がると小走りで追い付き、精一杯の大声を張り上げた。
「待て!我が名はエオムンドの息子エオメル!偉大なるローハン王セオデン陛下の臣にして甥、お世継ぎセオドレド王子とは、畏れ多くも従兄弟の血に繋がるもの!」
 男は、背後からの名乗りに足を止めると暫くじっとしていたが、やがて再び振り返った。その顔には少々困ったような色があった。
 仕方がなく向き直ると、名乗りを上げた少年は、岩をも貫き通しそうな真剣な眼差しで自分を見つめていた。その顔には、必死の形相があった。自分が出自を明かしたのだから、おまえも同じ正直さで答えろと迫る。

 男は溜息を付いたが、その後、真顔になると少年の前に跪き、深く礼をした。
「殿下。ローハン王家の血筋に連なる方からの名乗りに見合う名を、私は持ち合わせておりませぬ。ただ、人々からはストライダーという名で呼ばれております」
「答えになっていない!ストライダー!それは、あなたのあだ名だろう?私は、あなたの本当の名が知りたい」
 黒装束の男が、跪いたまま顔を上げた。この男とは長い時間顔を突き合わせて話しをしていたのに、それは、低く垂れ下がる梨の枝の木陰であった。葉陰から出でて、明るい下で見た男の瞳は、灰色がかった薄い水青色だった。

 珍しい色だなと思った途端、エオメルは何故かとくんと胸が騒ぐのを覚えた。それが何なのか、彼にはまだ分からなかったのだが。
「エオメル殿。私は、いずれ、あなたと再びまみえる予感が致します。ですが、あなたとローハンと、そして中つ国の行く末を思えば、もう二度と相ま見えぬ事を祈りたい。」
 それを聞くと、エオメルはショックを受けた。もう一度会いたいと思えばこそ、名を尋ねたというのに。
その心の内を見て取ったのか、男は付け加えた。
「何故なら、私とあなたが次に出会う時は、乱世になると思うからです」
 少年は黒目がちの大きな目を見開くと、今一度男を見た。からかっているようには見えなかった。だが、この人は、全く不思議なことばかり言う。
「今は、ストライダーとだけお見知りおき下さい。ただ、これだけは信じていただきたい。私はローハンへは一方ならぬ愛情と、恩義を抱く者です。セオデン陛下を始め、お世継ぎセオドレド王子、そしてあなたやエオウィン姫、皆様方の幸福と、そしてローハンとこの中つ国の行く末を、陰ながらいつでもお祈りしております」
――――この男、何故エオウィンの名を!?
 驚いたエオメルは問いただそうとしたが、一瞬気を抜いただけなのに、男の姿は掻き消えたようにどこにも無かった。 

 

*******


 ローハンは広大な草原の国だ。
 新緑に輝くその草原を、エオメルは金の髪を後ろになびかせ、黄金館のあるエドラスへ向けて、一心に馬を走らせていた。
――――急がなければ、セオドレド王子の朝のお仕度に遅れてしまう!
 迂闊にも、思っていたより時間を過ごしてしまったのだ。梨の木の下で、不思議な男と出会い、時を忘れて過ごしてしまった。少年は気遣わしげに、まだ東にある太陽を見た。
 この分では、遅刻してしまうかもしれない、まずは兎に角お詫びして急いで仕事を済ませ…!その後に――――――――。

 その後、何故遅刻してしまったのか、その訳をお話してみようか。自分が、どこに行っていたのか、その理由も…。
 

 躊躇う少年の脳裏に、あの不思議な色した瞳の男の言葉が甦った。
 ――――それほど情愛の深い方達ならば、あなたの正直なお気持ちこそをお知りになりたい筈。あなたが他人行儀に無理を装うほど、まだ愛し方が足りぬのかと、むしろ寂しく感じておいでと、私は思います。

少年はすっくと前を見た。
お話してみよう、伯父上に、セオドレド王子に。そして――――。

 そして今年は、みんなであの満開の梨の花を観に行くんだ。セオデン伯父上と、セオドレド王子と、妹と僕と、新しい家族4人で!

 

 あの木が満開になるのは、たぶん明後日だ!
 

****

 

 草原の緩やかな起伏の陰に、黒い擦り切れたコートを纏った、あのストライダーと名乗った男がいた。男は、エオメル少年が晴れ晴れとした明るい顔で、エドラスへと駆けていく姿を見送っていた。
「族長」
 背後から彼の部下が声を掛けてきたが、ストライダーは振り向かず、駆け去る少年の後ろ姿をじっと見つめたまま応じた。
「この広い草原の中から、よくぞここを突き止めたものだ」
「俺の嗅覚は特別製でしてね、あなたの居られる所なら、どんな所であろうと、見つけ出してみせますよ」
「おまえがわざわざ出向くとは、よほど危急のことか。ハルバラド」
 少年の姿が草原の地平線の彼方へと消えたのを確かめると、やっとアラゴルンは振り返り、同族の副官の立場にある若者に向き直った。
「灰色の放浪者が、あなた・捜しておられます。例のゴラムという者の行方について、あなたの助力を得たいと」

 

 ハルバラドの言葉に、何か大きく時世が動きだす気配を感じ、アラゴルンはついに始まるのだなと独りごちた。彼は今一度、エオメル少年が去った草原の彼方に気遣わしげに目をやった。

「あのセオデン王の甥子殿が、よほど気になると見える。何か、ご観になったのですか。気がかりな予見を」
 昔から、何故かこのハルバラドは自分の心を聡く読む。部下の問いに、アラゴルンは無言で頷いた。
 “梨下(りか)で冠を正すな”とは、単なる諺(ことわざ)だ。梨の枝は地面に低く延びるので、その枝下で頭に被った物を直す仕草をすると、梨泥棒に間違えられる。つまり、冤罪を招く真似をするべからずという意味であるのだが。

 咲き初めた梨の木の下で、アラゴルンは見てしまったのだ。
 比喩でなく、紛れも無い王冠を。あの少年の額の上に。中央に、輝く金剛石を嵌め込んだ、薄い金で作られたローハン王家の冠を。

 その意味するところは、お世継ぎセオドレド王子の早世。

 アラゴルンの胸が痛んだ。
 そんな事を、あの少年は決して望むまいに。亡くした父を母を、魂を売ってでも取り戻せるものならと訴えた、あの真っ直ぐな少年が、敬愛する従兄弟の王子を再び失うとは、あの少年にとっても、セオデン殿、そして、ローハンにとってもどれほどの嘆きをもたらすことか。

 生死の掟は人の理(ことわり)、自分にはどうすることも出来ぬ。だが。
「このローハンの見張りに割けるドゥネダインは、居らぬだろうか」
「冥王の復活以来、ホビット庄の辺りが不穏です。数少ない我らは、中つ国中に薄く散じながらも、灰色の賢者の助言に従い、常にホビット庄に目を向けております。庄境の警護が薄くなっても良いとおっしゃるのなら、幾人かこちらへ常駐させますが」
 感情を交えず報告したハルバラドの言葉に、アラゴルンは目を閉じた。
  
 ホビット族は、ロヒアリムのように武器を持たぬ。我ら北方ドゥネダインが陰より守らねば、モルドールの影があの平和な村に落ちた時、戦を知らぬあの種族はあっという間に絶えてしまうだろう。それにガンダルフは、何かこの・「界を救う鍵を、どうやらホビット族の上に見ているらしい。
 アラゴルンは、目を閉じたまま俯いた。
 駄目だ。ローハンの上に、不幸な未来を予見したとて、その情で動いてはならぬのだ。この、己の無力さときたら。

 強くなりたいと少年は言った。真っ直ぐな眼差しで、愛する者を守れるほどに、誰よりも強くなりたいと。

 エオメル殿、私もです。あなたの数倍も長く生きているというのに、未だに無力な己に歯噛みするばかり。どれほどの時を生き、剣の技を磨き、必死に大きく手を伸ばしても、世界は広すぎ、守りたいと願う気持ちが空回りするばかり。私は自分の指の間から、尊い命がすり抜けていくのをただ呆然と見つめるだけで、何の力も持たぬのです。

 

 「いかがなさいます。ご命令とあらば、このローハンの守りに幾人か廻しますが」
 ハルバラドの問いに、アラゴルンは少年の去ったエドラスのある方向を見据えると、気持ちを決めて、静かに言った。
「ロヒアリムは、戦う事にかけては、我らドゥネダインに勝るとも劣らぬ豪胆な者達。彼らのことは、彼らに任そう」
  族長が、何か大きな哀しみをまたひとつ胸に仕舞いこんだ事に気付き、ハルバラドが不機嫌に言った。
「あなたは、何もかも愛しすぎる」
「愛さずにはいられない人々なのだよ、ロヒアリム達は」
 そう言うと、アラゴルンはハルバラドが連れてきた栗毛の馬に跨った。彼は馬上から、広大な草原を、その向こうの一年中頂に雪を置く山々を、遥かに見晴るかした。

 その愛しげな眼差しに、ハルバラドはふと思った。
 この人は、おそらくこの中つ国の草木の一本に至るまで、愛してやまないのだろう。広大な大地の石くれの一つまでも、朝に生まれ日暮には死ぬ儚き羽虫の命すら、この人は深い愛情を寄せておられる。
――――それこそ、世界の王たる資質に他ならないのでは。 

「何をぼんやりしている、置いていくぞ!」
 声を掛けられ、ハルバラドは慌てて自分の馬に跨った。

 

******

 

 ローハンの草原を横切りながら、アラゴルンは豊穣な麦穂のような髪をした、あのひた向きな少年を想った。
 

 エオメル殿、許してくれと、私は言わぬ。私は、胸痛む未来と共に、あなたの真っ直ぐな眼差しの上に、確かにこのローハンの希望を見たのだ。

 

 

 その希望に、このローハンの行く末を、祈りを込めて託します。
――――――――再び、相まみえるその日まで。

<了>

 

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