**彼の人の面影
この日、結局エオメルは朝の仕事に遅参してしまった。その場はとにかく礼を尽くして詫びると、慌しく仕事へ取り掛かった。セオドレドは、自分の従者で、年下の従兄弟であるこの少年に何故か特に理由を尋ねなかった。エオメルは、今朝ストライダーと名乗った男の助言に従い、セオドレド王子に遅刻の理由と、今まで話せなかったことを打ち明けたいとは思ったのだが、いざ話してみようと思うとどのように切り出せばいいか分からず、その日はどうにも気がそぞろになりがちだった。
昼餉の後、精一杯の勇気を振り絞りセオドレド王子の元へと赴くと、王子の方が先に声を掛けてくださった。
「若駒に鞍慣らしをさせたい。おまえ、付き合うかい?」
2頭の若駒は、時間を掛けて鞍に慣れさせているところで、最後の調教の段階に入っていた。老練な調教師には既に従うようになっていたのだが、乗り手がまだ若いと知ると、若駒は幾度も二人を落馬させようと試みた。だが、二人の若者も、歩き始める先より馬の背で育ったような生粋のロヒアリム達。馬達も次第に二人を試すのを止め、大人しく従順になっていった。
草原で一通りの慣らしを施すと、セオドレドとエオメルは馬を休ませる為に川べりに赴き水を飲ませ、木の枝に手綱を結んだ。そして自分達もごろりと大の字になり、草むらに寝転んだ。
地面から見上げた空は青く、快い運動の後の解放感に、エオメルは晴れ晴れとした心地を味わっていた。
「梨の花は、・轤「ていたかい?」
不意打ちのように訊ねてきたセオドレドに、エオメルが驚いて跳ね起き目を見張ると、王子は意味ありげに笑った。
「当たったようだね。さすがは父上。朝に僕の従者が見当たらないが心当たりはとお尋ねしたら、たぶん、アルドブルグの梨の木を確かめに行ったのだろうとおっしゃられたんだよ」
「…何故…」
「父上はこの国の王であらせられる。この国で知らぬ事はないのさ。といいたい所だが、いかに父上といえど、千里眼は持ち合わせておられぬ。」
セオドレドはおもしろそうに笑うと、年下の従兄弟に言った。
「父上は、ご存知だったんだよ。エオムンド叔父上がご存命の頃、そなた達の一家が、谷地のはずれの満開の梨木を見に行くのが慣わしだった事を。おそらく、おまえは亡き叔父上になり代り、エオウィンに、昔と同じくその花を見せてやろうと決心しているだろう事を」
お二人は、何もかもお見通しだったのか…!
どれほど自分が何も知らなかったかを悟ると、エオメルはセオドレド王子にそっと言った。
「王子…、聞いていただきたい事があるんです。うまく話せるか分かりませんが、僕の話を聞いて貰えますか?」
長い長い話を、セオドレドは聞いてくれた。時々声が詰まって話せなくなると、何も言わず、エオメルがまた話し出せるまでいつまでも待ってくれた。
エオメルは、全て話した。今日、不思議な男に会った事までも。
最後まで話し終わると、ローハンの西側の丘陵に、もう陽が沈みかけていた。
「エオメル…、父上が、おまえ達兄妹を、息子よ、娘よと呼ぶのは、エオムンド叔父上に成り代わろうとしてのことではないよ。エオムンド殿は、そなた達のただ一人の父。私らは私らなりに精一杯そなた達兄妹を家族として迎えたいと、そう願っていただけなんだ。もう、分かってくれたと思うけど」
こくりと頷いた少年に向かって、セオドレドは続けた。
「それから、お父上の死も、お母上の死も、おまえの所為と思ってはいけないよ」
「ですがそれだけは、僕はあの時、父を引き止めそこなったんです!あの時、父をお引止めさえしていれば…!」
「エオメル、私は母エルフヒルドの命と引き換えに、この世に生を受けた」
さえぎる真面目な声に、エオメルは、従兄弟を見上げ・ス。
「長じてその事を知った時、父は、私を憎いと思われないのだろうかと、おまえのように悩んだよ。そんな私の気持ちを見抜き、父上は、ある日こういわれた」
セオドレドは、歳は離れているのに、体格はもう自分と互角のたくましい少年の両肩に手を置くと、そっと告げた。
「そなたの所為ではない、と」
頬を伝う涙に、エオメルは、今日はなんだか泣いてばかりで、自分は今まで生きてきた間に流した以上の涙を流しているなと、ぼんやり思った。
セオドレドはエオメルの顔を引き寄せると、互いの額をこつんとぶつけて言った。
「ありがとう、話してくれて。おまえの無理な笑顔を見るよりも、おまえの悲しみをこそ、共に分かち合いたいと願っていた。エオメル、私たちはゆっくりと家族になろうよ。無理をすることはない。こうやって涙や悲しみや同じ想いを重ねる内に、自然と家族になっていくんじゃないのかな。父上も同じ事を思っておいでだよ」
エオメルは何も言わず幾度も頷いた。頷くだけで、精一杯だった。
ああ本当に、あの男の言ったことは正しかったのだ。どうして、自分はこの方達の深いお心が分からなかったのかと思うと、胸が詰まり、言葉が出てこなかったのだ。
ローハン産の見事な2頭の若駒が轡を並べ、エドラスへ向けて駆けていく。
馬の騎手達は、まだ歳若い二人の従兄弟達。同じくらいの背丈だが、まだあどけなさの残る年下の少年は、がっしりと頼もしい 四肢を持ち、早晩、年嵩の従兄弟の体格を凌ぐだろうことは、容易に見て取れた。
「おまえが遭ったという、その男。私は、何故か伝説のソロンギル将軍を思い出した」
「ソロンギル将軍?センゲル御爺様の下に仕え、常勝の将と謳われた?」
セオドレドが頷いた。
「父上にお尋ねした事がある。ソロンギル将軍とは、どんな方だったのかと。父は一度だけ答えて下さった。
その姿勇猛にして優美。その心、潔く、しかも深し。
彼の人の旗下にあれば、全軍彼に心酔して、勇猛果敢に戦う。
静かに語り、よく人の心を読み、周りの者の心を捉えてしまわれる方だったそうだ。嵐と静けさ、相反するものを内包する、それは不思議な方だったと」
嵐と静けさを内包する。確かに、その表現はあの黒ずくめの男を彷彿させないでもなかったが。
「確かに、似ていなくもないですが、ソロンギル将軍は、生きておいでなら、もうご高齢の筈。僕が遭った方は、まだ若い…」
言いかけて、エオメルはふとある事を思い出した。
―――――私はこの花の咲く様子も好きでしたが、この実も好きでした。
「あっ!」
エオメルが大声を上げて思わず手綱を引いたもので、馬が大きく嘶き、後ろ立ちで立ち上がっていきなり止まった。
「こら、馬の司が自分の馬を驚かせてどうする。そんなに大きな声を上げて、いったいどうした?」
尋ねるセオドレドに、エオメルは早口で言った。
「あの男が、あの梨の実を食べた筈はない!あの木は歳を取りすぎて、花は咲かせるが、実は付けないんです。最後に実を付けたのは、亡き父がまだ幼少のみぎりと聞きました。父より若そうなあの人が、あの実を食べた筈はないんです!」
僕はあの男に、まんまと騙されたのだろうか?でも、そんな事をしていったい何の益が?
頭を傾げながらまた馬を歩かせ始めたが、ふと横をみると並んでいる筈の従兄弟が、後方で立ち止まったまま何か考え事をしているのに気が付いた。慌てて従兄弟の元へ戻ると、セオドレドは、奇妙な顔をしていた。
「…エオメル」
王子は、従兄弟に語った。
「父上は幼少の頃、遊び仲間だったそなたの父エオムンド殿といっしょに、ソロンギル将軍にあの梨の実をもいでいただいたのだそうだ。だから、父上はあの梨の木を知っておられたのだよ」
思いがけない従兄弟の言葉に、エオメルがまさかと笑い飛ばそうとしたが、またしてもあの男の言葉を思い出した。
―――――これだけは信じていただきたい。私はローハンへは一方ならぬ愛情と、恩義を抱く者…
「まさか…」
エオメルが呟くと、セオドレドも頭を振った。
「まさか…、だな」
一瞬真顔で顔を見合わせた二人は、次の瞬間大きな声で笑うと、セオデンとエオウィン、二人の家族が待つエドラスへと馬を走らせていったのだった。
あの不思議な男の記憶は、エオメルの中で日常に取り紛れていったのだが、古老の口の端にソロンギル将軍の名が上る時、何故かあの薄青い瞳のその面影が幻のように浮かぶのであった。
彼が真実を知るのは、まだまだ遠い後の話。
2007年のノルドランテ発行 「新編:花咲く木の下で。」に収録した、「花咲く〜」の続編にあたるお話です。本のあとがきにも書かせていただきましたが、この話は、「花咲く〜の続きが読みたい」とお声をかけてくださった方達からのエールの賜物です。書き手は、もちろん、書きたいから書くわけではありますが、二次創作というジャンルは、こうして読み手さんとの連携で成り立つ場合が多々あるのだなと深く感じました。
お声をかけてくださった方、そして、今、初めて読んでくださった方、全ての方に感謝致します。