***慈雨***

 小糠雨の降りそぼる、肌寒い日であった。その日、冷静さで知られる若い執政は、珍しく朝から落ちつかなげな様子だった。

「まだか」
「まだ早馬もついておりませぬが、ご無事なことは確かと」
「そうか。すまなかった下がってくれ」
下がろうとする侍従を、ファラミアは思い出したように呼び止めた。
「そういえば、妃殿下は…」
侍従は向き直ると、かしこまってファラミアの言葉の続きを待った。
「…妃殿下は、何かおっしゃっておいでではないだろうか」
「おそれながら、夕星妃は、午睡のお時間にあらせられます」
「…そうだったな。すまない」
 幼い頃よりファラミアを知る侍従は、何も言わずに執政の執務室を辞していった。数分後には、また呼ばれるであろう事を予測しながら。
 
 ファラミアは、かつて父のものであった執務室をいらいらと行ったり来たりしながら、考えずにはいられなかった。
 陛下にもしもの事があらば、真っ先にそれを察知するのは古えのエルフ族であり、ヌメノールの王の始祖、アラゴルンの祖先にあたるエルロスの姪の夕星さまに違いない。あの方はそれだけでなく、ご父君エルロンド卿より未来を見る力も受け継いでおられるようだから。夕星妃が安らかにお休みであるということは、陛下がご無事な何よりの証拠。それなのに、私は何故落ち着かぬのだろう。

 ファラミアは細かい雨が霧のように濡れそぼる窓から、王の本隊が帰って来るはずの方向をじっと眺めた。

 ヌメノールの予見の力は、自分にも少しはある。兄がエルロンド卿の会議に行くきっかけになった夢を最初に見たのは私だ。そしてその愛する兄ボロミアの死をも、私は見たのだ…。
 

 だが、お仕えしてまだわずかとはいえ、私は未だエレッサール陛下に関する予見を見たことがない。
 北と南に分かたれた二つのヌメノールの王国。その血は、別れ、薄まり、もはや同族とは言えぬのだろうか。

 

 否、私が陛下の予見を見ぬことこそが吉兆やもしれぬ。私の見る夢は凶事ばかりを知らせる。青白い新月の光の下、葦がざわめく岸辺で、小船が愛する兄を乗せて、私の元から去っていく光景を見た。

――――――――皆去っていく。私が愛する人々は、全て。父も兄も。
 この上、絶望の果てに死の淵をさ迷っていた私をこの世に呼び戻し、生きる意味を与えてくださったあの方を失ったら、私はいったいどうするのか。

 ともすると、昏い考えに陥りがちな自分をファラミアは自嘲した。この雨のせいだ。この霧雨が、ボロミアの死を見た夢の、紗がかかった光景を思い出させる。

 陛下のご武運を信じておらぬわけでは、ない。だが、心配なのだ。此度の戦は私も赴く筈だったのに、サウロンの残党との小競り合いだから、国の要となるそなたまでいっしょに行く事はならぬと、厳しく一喝されてしまった。
 私より、陛下を失う事の方が、どれ程の損失かを諄々と説いたのに、あのお方はあっさりと言われた。
「命令だ。そなたが従わぬとあらば、私は就任早々無能な王の烙印を押される事になるが、それがそなたの望みか」と。

 戦局は我が軍の勝利との報は一週間も前に届いた。ならば昨日辺り、本隊が帰還してもいい筈なのに、何故これほど遅れているのか。伝令を送っても、行くばかりで帰ってこぬ。……あるいは、小競り合いと見せかけて、油断した帰途の際、別動隊の急襲に遭われたのでは。では、こちらから、すぐさま援軍を送るべきか!
 ファラミアが最悪の事態に備えようとした瞬間だった。
「何やら難しい顔で思案中のようだが、邪魔をしてもよいだろうか」

 

 振り返り、ファラミアはしばし言葉を失ったままその人を見つめた。自分の顔を見つめたまま、呆然と立ち尽くす若い執政に、エレッサール王は言った。
「ほんの数日の間に、この顔を見忘れたか?もっとも出て行った時の格好とは程遠いが」
 テレコンタール王朝の御世の、初めての王の出陣とのことで、にぎにぎしい出立であったのだ。ゴンドールの粋を極めた礼装に身を包んだエレッサール王の姿は、見送る人々を熱狂させ、歓呼の声はペレンノールを隔てたオスギリアスにも響き渡るのではと云われたほどであった。
 だが、今目の前にいる人を見て、誰があの時と同じ方と思うだろうか。細工を施した甲冑はどこかへ脱ぎ捨てられ、全身泥だらけで雨に濡れそぼり、身軽といえば聞こえがいいが、その姿は土木作業に従事する者が、仕事の途中で抜け出してきたという風体だった。腰に剣を帯びてさえいなければ。

 ファラミアは、何の前ぶれもなく忽然と目の前に現れた王に対して、言いたい事が千も浮かんだが、口に出したのはこれだけだった。
「無事の帰還を、お喜び申し上げます。ですが王たるお方、典礼に従い、正門より先触れを前に、国民の歓呼に応えながら軍を率いて入場するのが慣わしです。」
「ああ、軍なら置いてきた」
「何ですって!?」
「帰途、川の堤を積み上げている村を通りかかったんだ。戦の折にオーク軍に堤を破壊されたらしく、雨雲に備えて堤を修理していたのだが、戦のせいで、村に男手が少なく難儀していてね。途中までは私も手伝っていたんだが。そういえば、そなたが寄越した伝令まで人足に使ってしまった。危急を要したんでね。夕べようやく目途がついたので、後は軍団長に任せて、私だけ先に帰ってきた」
「…まさかお独りで帰ってこられたのですか」
 冷ややかに訊ねたファラミアに、王はばつが悪そうに言った。
「やはり、私も最後まで堤の修理に残った方が良かったかな。確かに一人でも人手が多い方が早いだろうとは思ったのだが、こちらの事も気になってね」
「そういうことではありません!」
ファラミアが大声を上げた。
「供もお連れにならずにお一人で帰ってこられるなど、言後同断です!あなたにもしも、もしものことがあったら、いったいどうされるおつもりだったんですか!?」
 気色ばんだファラミアに、王はやんわりと応じた。
「どうもならないさ。ゴンドールは今までも王なしでやってきたんだ。乱世ならともかく、今は一応平時だ。平時には、王など無用の長物かもしれぬぞ」
 王の言葉は、ファラミアを更に激昂させた。
「あなたは…!あなたは全然分かっておられない!どうして分かってくださらないんです!?」
 わなわなと身が震えるのをファラミアはどうする事も出来なかった。どれ程必要とされているか、何故この方は分かってくれぬのだろう。
「ファラミア」
 優しげな声で呼びかける王に、ファラミアはきつく応じた。
「懐柔も言い訳も命令も、今回だけは利きませぬぞ。もし再びこのような事をなさったら…!」
「ファラミア、そなた、私を呼んだだろう」

  ファラミアが、息を止めた。
「そなたの心配そうな声が届いたから、急いで帰ってきた。私は、移動する時は一人の方が早いんだ。供がいたら、これほど早く帰っては来られなかった」
 ファラミアは無言のまま、王に背を向けた。すると、王が尋ねた。
「どうした?何がそれほど心配だったのだ。私はいつでも帰ってくるよ。確かに王など無用の長物とは思っているが、あれほどの声で呼ばれて帰らぬ訳にはいかぬ。ファラミア、私はそなたを一人にはしないよ。決して」

 外の雨脚が強くなり、執務室にしばらく雨音だけが鳴り響いていた。

 長い沈黙の後、ファラミアは平坦に言った。
「陛下の決済が必要な書類が溜まって、難儀しておりましただけです。でも今日はとにかくその服を着替えてお休みください。儀礼を無視した件に関しては、国民の大事を優先されての事ですので、典礼長には私から融通するよう取り計らいますゆえ」
 ファラミアの言葉に、王は朗らか応じた。
「そうか、助かるな。有能な執政を得て、私のにわかしのぎの王様稼業も、なんとか対面を保てそうだ」
 そういうと、顔を背けたままのファラミアの肩をぽんと軽く叩き、王は執政の執務室を退出されていった。

 ファラミアは、最後まで王と目を合わせなかったのだが、エレッサール陛下が出て行かれると顔を上げ、その人が去ったその扉を、長い間見つめていた。
 陛下の言葉が、幾度も頭の中でリフレインする。

―――――――ファラミア、私はそなたを一人にはしないよ。決して。

 そうだ、私は不安だったのだ。兄を、父を失い、私の愛する者は皆、私を置いていってしまうのだと。あの方をもいつか失うのではと、子供のように怯えていたのだ。

 その心の声を、あの方は聞きつけて駆けつけてくださったのか…。

 窓の外、雨がいっそう激しくなっていった。ファラミアは独りごちた。

―――――――堤防の修理はおそらく間に合ったであろう。陛下は、まるで何でもない事のようにおっしゃるが、私達は、望む限りこれ以上ない主君を得たのだ。

 

 

 
 ゴンドールは救われる。…そして私も…。

 

 

 執務室を陰鬱にしていた雨模様は、今では慈雨となりて、ファラミアの心に降り注いでいたのであった。

 



森鴎外という人は子煩悩で、非常に子供を愛した人だそうです。鴎外の子ども達は、有名な森茉莉さんを始め、杏奴さんや他のご子息達も異口同様、「父は誰よりも自分に愛情を注いでくれた」という意味合いのことを、著作の中で語っておられるようです。
アラゴルンを考える時、この鴎外のエピソードを思い出します。
この人と関わった人は、誰もが、深い愛情に満たされる思いを感じたのではないかと。

まー、アラゴルンに関しては、無意識にだれかれ構わず落としているような罪深さを感じないでもないのですケドねv


 

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