※この話には、ホビット3の重大なネタバレは含まれています。一切知りたくない方はご遠慮ください。



清らの夢
 
 いったい、何時だったんだろう。一目惚れだった筈はない。僕らの最初の出会いは、踊る子馬亭。第一印象は、ただ胡散臭い人だと思っただけだったから。

 それじゃ、いったい、何時なんだろう。
 あの人に、こんな気持ちを抱くようになったのは。

 「ストライダー!」と、僕はよく叫んだ。あの旅の途中、モリアの坑道の前で湖の番人に捕らえられた時。ギムリの従兄弟、バーリンの墓所でトロルに襲われた時も、僕は必死にあなたの名を呼んだ。
 信頼だと思っていた。
 エルロンド卿の会議で指輪を運ぶと申し出た時、あなたは言ってくれた。僕を守ると、命を懸けて。そして僕の前に跪き剣に誓ってくれた。
 あなたは、その誓いを守った。クレバインの偵察が来襲した時も、岩陰で僕を敵の目から庇うようにそばに来てくれた。モリアの橋を渡る時、僕らはしんがりになったけど、あなたが落ち着いた声で僕を支えていてくれたので、僕は不安を感じなかった。
 あなたはいつも行動で示してくれた。あなたの誓いは揺るぎないものだと。

 そう、信頼だと思ってたんだ、この気持ちは。サムに寄せる気持ちと同じく、強く確かなものではあるけど、それ以上のものではないと。

―――――――――それならば、いったい、何時からだったのだろう。


******


 夏至の前日のこと。
 ゴンドールの首都、優美に聳える塔に白い木の紋章の王旗を誇らしげになびかせるミナスティリスは、明日、帰還せし王の妃となるエルフの夕星姫、アルウェン・ウンドーミエルとその一行を迎え、沸き立っていた。
 輝かしきエルフの一行の訪れにより、花はいっそう咲き乱れ、星々でさえ、瞬きのひとつひとつが喜びの唄を歌うがごとく輝いていた。

 エレッサール王は、中央に小さな噴水を置く中庭で、じっと夜空を見詰めていた。夜露に濡れた芝草は、素足に冷やりと心地よかった。
「馳夫さん…」
 懐かしい名呼ばれて振り向くと、フロドの姿があった。
「あ…、すみません…、つい」
 かつて馳夫と呼ばれていた者は、柔らかく微笑んだ。
「何とでも、好きに呼ばれるがいい。フロド・バギンズ」
 フロドはエレッサール王と呼びかけようとして、少しためらった後に言った。
「それじゃ、アラゴルンと呼んでもいいですか?」
 承諾の印に、王は再び微笑み頷いた。

「すみません…、明日という日を控えお忙しいだろうに、こんな所に呼び出したりして」
「花婿などという者は、存外暇なものらしい。それに、明日の事は全て執政殿とイムラヒル大公が取り仕切ってくださるようだからね」
 そうは言っても、連日戦後処理に追われているこの人は、毎日眠る間もなく働いているのだ。それでも、サムを介しての自分の呼び出しに、こうして来てくれた。フロドの胸が高鳴った。
 言えるだろうか、それともやはり言わずにおくべきなんだろうか。
「…少し、座りませんか」
 申し出ると、アラゴルンは頷いた。二人は快い水音を立てる噴水の大理石の縁に並んで腰を下ろした。


「王いますを聞き知らぬ輩…」
 ぽつりとフロドが呟くと、アラゴルンが耳を傾けた。
「ホビットの古い言い回しで、トロルやオークを指す言葉です。ご存知ですか?」
「それは、随分と古い呼び方だ。あなたこそ、よくご存知だ」
「ビルボから教わったんです。まだ小さかった頃。ビルボの冒険に出てくるスランドゥイル王や谷間の国の王になったバルドの話を聞いて、王様って何?ってビルボに尋ねたら、ビルボが教えてくれました。 
「ホビット庄の北には、昔アルノールという国があって、その都フォルノストには、王がいらしたんだと。最初のホビット族は、その王の認可を得てエリアドールに定住した、その臣民だったんだと。
「僕はその話をずいぶん不思議に思っていました。だって、北の都はとうに滅びた伝説の名残りのようで、それに僕らホビット族は、そんな雅な話には縁が無いように思えたし。」
 フロドは昔を懐かしみ、微笑んだ。
「トロルやオークや、ああいった野蛮な連中は“王いますを聞き知らぬ輩”で、ホビット族は北の王国の臣であった由緒ある種族なんだと。ホビット庄のセインの始まりは、王の代わりをする為に選ばれたんだぞと、ビルボはよく自慢していました」
 フロドは言葉を切ると、傍らに座しているアラゴルンを見上げた。
「あなたが、僕たちホビット族の王だったんですね、あなたの古い祖先の王様たちが」
「フロド、ホビット族は自由の民だ。私は、たとえいずれ旧アルノールを復興させることがあるとしても、あなた達を臣下にするつもりはない。何故なら、あなた達自身が世界の王なんだ。あなた達に服従は似合わない」
「たぶん、あなたならそう言うだろうと思っていました。」
――――――――でも、僕は。
 本当は、話したいのはこんなことじゃない。いいや、馳夫さんとなら、どんな事だって、こうして傍に居て話していることがただ心浮き立つのだけれど。今、しなきゃならないのは、こんな話じゃない。わざわざ来ていただいたのは…。
 ああ、云うべきなのか、言わずにおくべきなのか、未だに僕の心は定まらない。
 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、馳夫さんは僕の隣に静かに腰掛け、ひっそりと僕が話すのを待っていてくれる。何か言わなきゃ。話の接ぎ穂を必死に探していたフロドの口から、言葉がこぼれ出た。

「明日の…、明日の婚儀を取りやめて欲しいんです…」

 一瞬、世界が音を止めた。
 フロドの胸が早鐘を打った。言い出すにしても、いきなりこんな無茶な事を切り出すつもりはなかったのに。こんな事を云っていったいどう思われたのかと思うと、恥ずかしさと恐ろしさで、がんがんと顔に血が昇ってくるのをフロドは感じた。今の失言を取り繕わなければと、必死に頭を巡らせたものの、自分の言葉に泡を喰ってしまった彼には何の知恵も浮かばず、不自然な間だけが過ぎていく。
 ぎゅっときつく目をつむると、とにかく冗談にしてしまおう!と、意を決して目を開き、ありったけの勇気を振り絞ってアラゴルンの顔を振り仰いだ時だった。
 
 そこに星の静けさを宿した、真摯な眼差しを見出した。その表情には、驚きも侮蔑もなく、アラゴルンはただ自分の言葉の続きをじっと待っているだけだった。

――――――僕は、この人が好きだ。

 意図せず口からついて出た言葉は、何より正直な本心だったのだ。運命のように烙印を押されたその事を悟ると、フロドは覚悟を決めて立ち上がり、アラゴルンの真正面に向き合った。真っ青な大きな瞳で、フロドはアラゴルンを見返して言った。
「…もしも、僕がそう言ったら、どうしますか?」

 泉水が間断なく水面に零れ落ちる水音だけが、二人の間に生じた細い緊張の糸と係わり無く、のどかに小さく歌い続けていた。

 アラゴルンは何もいわず、フロドの視線を受け止めていたが、座ったまま少し姿勢を正すと静かに訊ねた。
「理由を、聞いてもいいだろうか」

「理由は…、」
 フロドはこの期に及んでも、まだ躊躇っていた。言うべきなのか、言わずにおくべきなのか。自分の気持ちの真実はただ一つなのだが、それを告げてしまうと、アラゴルンから選択の権利の一切を奪ってしまうように思えたからだ。
「理由は…、言いたくありません」


 どれほど時が流れたのか、もしかしたらほんの短い時間だったのやもしれぬ。いずれにしろ、フロドにとっては永劫のように思われたのだが。
 

 アラゴルンが立ち上がった。彼は簡素だが、上質な糸で織られた裾が地面まで届くゆったりとした夜着を身に着けていた。立ち上がると共に、彼から、ほのかに<王の葉>アセラスの芳香が立ち昇った。ここに来る前、療病院で未だに黒の息の傷に苦しんでいる人々を見舞っていらしたのだなとフロドがぼんやり考えた時、アラゴルンが自分の前に跪いた。
 彼は芝草の上に跪くと、フロドの顔を覗き込んだ。丁度、エルロンドの会議の際、同行を申し出てくれた時のように。
「フロド・バギンズ、あなたが望むなら、そうしよう」

 その瞬間、フロドの顔が苦痛をこらえるように歪んだ。彼は、知っていたから。アラゴルンがそう言うであろう事を。そして、それは彼が自分を愛しているからではなく、自分が払った犠牲の為であるという事も。

 フロドの脳裏に、忘れ得ぬ光景が過ぎった。
 ボロミアさんが指輪の魔力に捕らわれ、僕から指輪を奪おうとした後、探しに来てくれたあなたをも僕は試そうとした。これを葬れるのかと、指輪を差し出して。
 あの時のあなたの表情が忘れられない。指輪はあなたに呼びかけた。いとも魅惑的な声でアラ――――ゴ――――ン…、エレッサ――――ル…と。
 あなたは魅せられたように近づくと、指輪に向かって躊躇うように右手を伸ばしてきた。そして跪き、僕が差し出した手の平を傷だらけの両手でそっと優しく包み、僕の胸に押し戻してくれたんだ。

 僕はずっと迷っていた。指輪の力を感じる度に、この棄却の旅へは自分ひとりで行くべきなのではと。答えは出ていても、恐ろしくて決断を先延ばしにしていた。ボロミアさん程の偉丈夫な人さえ指輪の魔力に抗えなかったことで、答えは半ば出ていたけれど。あの時、あなたがどれ程の誘惑に打ち勝ったかを悟った時、僕の心は自ずと決まった。
 もうこれ以上、誰も指輪の試練にさらしてはいけないのだと。

――――――――あなたが好きだ。

 何時だって、精一杯の真心を示してくれるあなた。僕が背負った重荷を、自分が肩代わり出来なかった事を今でも償おうとしているあなた。
 真摯な瞳で自分を覗き込むアラゴルンの眼差しに、フロドの気持ちは決まった。

――――――――あなたが好きだ。

 今までよりも、この瞬間ほどあなたを好きだと思ったことはない。本当にあなたが好きだ、世界に叫びたいほど。けれど、僕の愛を叫ぶには世界は小さすぎる。小さすぎるんだ、この人への愛の為には。

 言うべきか、言わずにおくべきか。ずっと迷っていた問いかけの選択はなされた。 
 もうこれ以上この人へ、いかなる試練をも課してはいけないのだと。

 フロドはアラゴルンに背を向けて数歩離れると、くるりと振り向き、向き直った。その顔には、まだホビット庄から一歩も出たことのなかった時代の、一点の曇りもない明るさと、茶目っ気が浮かんでいた。

「そんな真面目な顔をしないでください。ホビット流の冗談ですよ。僕らはこうやって、ほんのちょっとからかってやるんです。幸せの絶頂の新婚者なんかをね」
 アラゴルンは、フロドの言葉に狼狽したような複雑な顔をしたが、躊躇った後にため息のようにポツリと言った。
「…やれやれ」
 フロドがますますからかう表情をしたので、アラゴルンが渋面を作った。
「やれやれ、酷いな…」

「あなたが、エルフの姫を迎えてにやけた顔をしているからですよ。それと、花婿なんてものは支度はいらないが、友人達に一生分からかわれる存在だってことをご存知ない様子だったから。僕自身は経験ありませんが、ホビット庄ではさんざん見聞きしてますからね。」
「ホビットがどういうものか、私も忘れていたよ。全く、あなた達ときたら人生を楽しむことにかけて、これほど秀でた種族はいない。よく食べ、よく飲み、よく浮かれ騒いで、いつ如何なる時も人をからかう事も忘れない。王の玉座に胡坐をかくことすら、許してくれないのだね」

 そう言うと、アラゴルンは笑った。晴れやかな笑い声だった。フロドも笑った。二人して心行くまで。

 ひとしきり冗談の押収を楽しむと、フロドは少しだけ真面目な声で言った。
「ここに来て頂いた一番の目的を忘れるところでした。アラゴルン、もう一度跪いてもらえますか?」
 アラゴルンが柔和な微笑みを浮かべたまま跪くと、フロドはその頭に両手を添えて引き寄せ、秀でた額にそっと口付けをした。
 「明日の婚礼を祝福させてください。あなたの幸せを願っています。とこ永久に、いつ久しく、どこにいても、貴方の」
 神聖な口付けを受け、アラゴルンは指輪所持者として世界を救った者を見上げると云った。
 「フロド、私もだよ。私は、この世の誰よりも、貴方に幸せでいて欲しい。とこ永久に、いつ久しく、どこにいても、貴方の」

 それ以上はもう耐えられなかった。フロドはそっと横を向くと、囁くように早口で言った。
「どうぞ、もう行ってください。きっと、お傍付きの方達があなたを捜しています」


 エレッサール王が辞した後、幸福と空虚の入り混じった不思議な気持ちをかかえ、フロドが空を見上げていると、時を見計らったように、おずおずとサムが顔を覗かせた。
「フロド様…、どうして言ってしまわなかったんです?サムは、お気持ちを伝えるんだとばかり思ってましたよ」
「いいんだサム。言わない方がいい事もあるんだ。言ったら、あの人は苦しむだけだから」
 言ってから、フロドは自分の言葉に一点の偽りもない事を確かめ、その事に満足してサムに微笑みを返した。透ける波璃瓶からこぼれ出るごとき、美しい微笑だった。
「フロド様」
 その微笑みに、サムは気遣わしげに思った。
 サムは心配なんです。旦那さまは、ますます透けるようになっておしまいだ。あの旅の途中でも、もうこのお方は充分光だけの存在になってしまわれたように思えたのに。サムはもう少し、旦那さまにこの世に留まっていて欲しい。そう思うのは、いけない事なんでしょうか。
―――まったく、あのアラゴルンの旦那ときたら、鈍いにもほどがある。


 サムが心の中で嘆息して毒づいた時だった。陽気な声が、鈴の音のように響いた。
「馬鹿だなあ!千載一隅の好機だったのに。告白しなくたって、押し倒すなり、唇を奪うなり、エステルは君の頼みなら、絶対断らないのに」
 現れたのは、綺羅綺羅しい緑葉の王子。
「まあ、なんだ。貴殿の振る舞いは、真に立派であったと申す他はないが」
 その後ろから、立ち聞きしていた事を恥らうように現れたのはギムリ。
「何で相談してくれなかったのサ!こういう事は色恋に長けたボクの助言をまず聞いてくれなくちゃ!」
 続いてゴンドールの正装を身につけたピピンとローハンの衣装を纏ったメリーも現れた。
「君の場合は、振られた経験しかないだろう?ピピン」

 フロドは、自分とせいぜいサムしかいないとばかり思っていたのに、立ち現れた旅の仲間達に驚くやら恥ずかしいやら。面食らって声も出ないフロドにレゴラスが言った。
「失恋したのは君だけじゃないってこと。ボクなんか、エステルが君くらい小さい背丈だった頃から知っているのに、いい思いをさせてくれたのは数える程。ま、あの朴念仁に色好い返事を期待しても馬鹿を見るだけってのは、一番僕が知っているワケよ」
「いい思いって…!いったい、あなた、アラゴルンに何をしたんですか!?」
 思わず焦ったフロドに、レゴラスが大きく笑った。
「いい傾向だ。ねえ、サム。これくらいは娑婆っ気がなくちゃ」
 サムに向かって片目をつむると、レゴラスは続けた。
「今宵は、本当はエステル独身最後の日を、ホビット流に思う存分からかいの種にして明かすつもりだったけど、エステルのにやけたツラなんか見たくもないってのが本音さ。君との失恋パーティーの方が楽しそうだって思ってね」
「ワシは別にあの薄汚い野伏に失恋はしておらんが、アラゴルンが一方ならぬ器量の持ち主だという事には異存はない。仲間のよしみで酒が酌み交わせればそれで良しとしよう」
 不器用な言葉に、ありったけの思い遣りを込めたギムリの言葉に、フロドはどれ程自分が皆を心配させていたのか悟った。
「みんな…」
 言葉が詰まると、思いがけない人も顔を出した。
「さて、ここは独身者が集う場かな?それならわしも、加わる権利があると思うのだが」
 長い顎鬚の人の登場に、一斉に皆がその名を呼んだ
「ガンダルフ!!」

 その夜は、独身者の集まりとなり、どこからか現れた酒に皆にぎやかに、フロドとレゴラスの失恋を、アラゴルンの結婚への祝杯をも交え、乾杯を幾度も交わした。



 夏至祭りの日、エレッサール王と夕星姫の婚礼は、厳かに、晴れやかに執り行われた。その祝祭は新たなる第四期の平和の象徴のようで、誰もが寿ぎの言葉を口にした。



 祝祭の日々の後、フロドは白の木にヴァリノールの歌を歌って聞かせているアルウェン妃とエレッサール王の下を訪れた。彼が辞去を申し出に来た事を、アラゴルンは察し、今しばらく待てば、途中までいっしょに赴きたい事、その際フロドの偉業に相応しい贈り物があるならばなんなりと申し出でて欲しいといわれたのだが、その事にフロドは首を横に振った。
 すると、アルウェン王妃が、しばし指輪所持者と二人だけにして欲しいと王に申し出、それは叶った。

 王妃と二人きりになったフロドは訝しく思い、また少々居心地の悪い思いもしたのだが、王妃は優雅にお辞儀をするとフロドに言った。
「この世の誰寄りも勇敢な方へ、御礼を申し上げます。わたくしの為にではなく、エステルの為にあなたが成された事へ対して」
 ああ、それでは、この方もお見通しだったのか。
 合点がいったフロドに、アルウェンは続けた。
「あなたは、ご自分に見合う報酬を受け取る事もおできになったのに、エステルに人としての喜びを残してくださった。あなたの払った数々の犠牲の前では、わたくしはただ頭を垂れるだけです」
 深く跪いた夕星妃に、フロドは慌てて言った。
「どうか、顔をお上げください。僕は、むしろ貴女の勇気を褒め称えたいくらいなんです。貴女がなされた選択は、常命の僕らには及びも付かぬことと聞いています」
「ルシアンの運命を選んだのは、わたくしの意志。そして、この事はわたくしにとってはさほど重大な事ではありませぬ。何故なら、この道の結末には苦い運命が待っていようとも、しばし愛する者と共に歩む、無上の祝福が約束されているのですから」
「あなたとアラゴルンの為に、僕はその時が少しでも長く続くことを祈っています」
 本心から出た言葉だった。その言葉を受け取ると、アルウェンが彼の名を呼んだ
「フロド・バギンズ」
 深く、芳しい花の香りのような声だとフロドは思った。あの人に相応しいと。
「これは、あなたがどうなさろうと決めていたことですが、わたくしはあなたに贈り物をしたいと思います」
 フロドが首をかしげると、アルウェンは言った。
「時が来て、あなたがそれをお望みなら、わたくしの代わりに西の浄福の地へ渡る権利をあなたにお譲りいたします。何故なら、あなたの負うた荷は深く、あなたをこれからも苦しめることでしょう。その記憶が癒えるまで、西の地で憩うことが出来ますように」
「でも、それではあなたは…!」
 フロドが思わず叫ぶと、アルウェンが静かに告げた。
「人は愛する者の為に戦うと見えます。あなたの戦いは終わり、エステルの人生を賭けた戦いも幸福な結末を迎えようとしています。わたくしの戦いはこれから。でもそれはまだ先の事。」
 アルウェンが微笑んだ。その名の通り、その笑みは、黄昏行く夜空の一番星、宵の明星の光を見出した旅人同様、その道を行く人を照らすのではないかと、フロドにはは思われた。
「どうぞお受け取りください。あなたの生涯は、あなたご自信が思っておられるより深く、わたくし達の生涯と結びついています。あなたの幸せはエステルの幸せであり、それはとりもなおさず、わたくしの幸せへと繋がっているのですから」


 フロドは夕星姫からの恩寵を受け取った。
 そして彼は今、大海を西へと渡る船上の人となった。

 抱擁を交わした、友人達の姿が小さくなっていく。
 

 僕が、何を成し得たのか実のところ分からない。僕を勇気ある者と称える人がいる。僕には分からない。指輪を葬った勇者と称える者もいる。僕は指輪を葬ろうと、努力をした。でも、あらゆる人の助けなしにはあの棄却の旅は成しえなかったのだ。愛しい人達、誰よりもサム、メリー、ピピン、そしてボロミアさん。レゴラス、ギムリ。全ての出会った人の記憶が僕を支えた。
 愛するホビット庄、僕がもし勇気を持っていたとしたら、全ては故郷と養い親のビルボから与えられたもの。

 指輪は僕を蝕み、僕を思い通りにしようと試み、ついにはそれに成功した。それなのに、指輪が滅んだのは、ガンダルフが教えてくれた哀れみのゆえ。ビルボがゴラムにかけた情けを、僕が受け継いだからに他ならない。
 良きものは、必ず悪しきものに打ち勝つのだと、それを示したのが、指輪の棄却の
旅だったんだ。僕はただ運命の役割を担っただけ。

 全ての人が、愛するものの為に戦った戦だった。敗れた者も勝利した者も、等しく命がけに。

 今、全てが終わる。僕も終えてもいいだろうか。この長い旅を。中つ国の平和なんて、そんな大それた事を望んだ訳じゃない。僕は前に進むしか思いつかなかった。ただ、それだけなんだ。

 今この時、僕は全ての旅を終え、ただ一人の人を想ってもいいのだろうか。

 フロドの脳裏に、慕わしい人の面影が浮かんだ。自分の前に幾度も跪き、見上げてくれた、あの誠実な眼差し。自分の瞳より淡い色の、不思議な色合いの瞳を。

 アラゴルン、あなたを王と呼んでみたかった。いずれ、アルノールの復興王となるであろうあなたを。臣民として、マイ・キングと。
 ホビットは自由の民とあなたは言った。自分達自身が世界の王なのだと。でも僕は、ひとつのくびきに繋がれた。自ら進んで。
 
 清らの夢のように、儚かったこの想い。 
 この想いを西の永久の地へとたずさえて参ります。エルフの姫が譲り渡してくれた恩寵と共に。さすれば、その想いは永久に色あせず、輝かしきものとなるでありましょう。

「見えてきたぞ」と、炎の輝きを留めたナルヤを嵌めた指で西の方を指してガンダルフが僕に囁いた。
 ビルボが青春の輝きを取り戻した顔で、その彼方を眺めやる。
 青い風の石たるヴィルヤを嵌めたエルロンド卿と、白いミスリルのネンヤを嵌めたガラドリエルも、眩しそうに西の方を眺めた。



 そして、ついにフロドは灰色の雨の帳がガラス色に変わり、それも巻き上がってその下に、白い岸辺と、その先にはるかに続く緑の地を見出したのであった。





 ―――――――――今も、彼の想いはその地に横たわっている。永遠に、色褪せず。


,.清らの夢 <了>



読了 ありがとうございます。
「王いますを聞き知らぬ輩」について、本での発表の際ご質問があったので出典を記します。「旅の仲間の序章三 ホビッと庄の社会秩序」からです

フロドの告白物語いかがでしたでしょうか?感想など頂けたら幸いです。


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